外に食事に行こうと門のほうに歩いていくと、今度は、モンゴル系の顔つきをした歳をとった男性が声をかけてきた。すぐに思い出すことができなかったのだが、「あなたがパサンに会ったときに、私もあなたに会いました」と言われて、ぴんと来た。2006年3月にロルパで初めてパサンにインタビューをしたとき、ずっと私たちの傍にいて話を聞いていたパサンの"グル(師)"である"パルバト"だった。
すでに60歳を超えているパルバトは、元インド軍グルカ兵で、人民戦争のあいだ、パサンと行動をともにして、襲撃や武器に関する知識を教えた人物である。私は彼が議員になっていたことを知らなかった。モンゴル系民族のマガル人であるパルバトは、比例代表制の議員として党に選ばれたのである。
私はパルバトと、そしてキルティプル出身のネワール人議員の2人ともに会議場を出て、近くの食堂に軽食をとりにいった。外に出ると、国際会議場の南側の道路を埋めて、デモ隊がシュプレヒコールをあげていた。知り合いの日刊紙記者に聞くと、ここにいるのはほとんどが統一共産党の活動家だという。
確かに、マオイストの青年組織であるYCLというネーム入りのたすきをかけた少年たちを見かけたが、なぜか、道路のわきにある店の前でたたずんでいるだけで、デモ隊のなかには入っていなかった。知り合いの記者によると、マオイストはナラヤンヒティ王宮に近いラトナ公園に集結しているという。
デモ隊が叫ぶスローガンは、共和制実施を求めるものだった。後に報道されたことだが、この日、マオイストは共和制への移行を宣言するまで、議員たちを会議場に閉じ込める方針をとって、会議場周辺にも集結していたようだ。
つづく~
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