※ 次の話は、中央クラスの幹部たちの間で広まっていた噂である。
金日成主席の責任副官も務めたことがある労働党組織指導部副部長兼本部党責任秘書のドン・ピルムも、その当時連行され、ありとあらゆる拷問を受けたらしい。
彼は自分がスパイの濡れ衣を着せられそうになっていると知るや、指を噛み切って流れる血で監獄の壁に「金正日将軍万歳!」と書き、壁に頭を打ち付けて自害することで自らの潔白を証明したという。政治局の候補委員であり平安南道の党責任秘書だった徐允錫(ソ・ユンソク)(注6)は、スパイの疑いをかけられて、数ヶ月にわたって加えられた執拗な拷問に耐え切れず、精神を病んだといわれている。
それまでは「徐大監」(大監は朝鮮王朝時代の官位)というあだ名がつくほど権勢をふるっていた徐であったが、後になって事件が解明されて釈放され、烽火(ポンファ)診療所で治療を受けている際、病室に注射をしに来た看護婦に向かって「先生、先生」とペコペコと頭を下げるなど、以前なら考えられない行動をするようになった末に亡くなったという。二〇〇〇年になって「龍城事件」などに巻き込まれた者に対する慰労の宴が中央で催された際、徐允錫の息子が壇上に立ち、このような父親の「軟弱さを断罪」するや、その場に列席していた金正日は肝を冷やしたと言われている。
党の農業担当秘書であった徐寛熙は、一九九七年の旧盆の日に、平壌市楽浪(ラクラン)区域で公開銃殺された。主体(チュチェ)農業創案の一番の功労者である彼は、最後は米国の雇われスパイという烙印を押されたのであった。
党の農業部長、農業担当副総理を兼任し、一九八四年に死亡していた金萬金は、愛国烈士陵に安置されていた墓を掘り起こされ、そこに実弾を撃ち込むという「処刑」が執行された。彼も徐寛熙と共に米国の雇われスパイだったという「判定」を受け、このような仕打ちを受けたのであった。※