SASBは03年にできた団体で寺院の管理や巡礼ルートの整備などを任され、それまでそれを担ってきた地元のイスラーム教徒やヒンドゥーのブラーマンが仕事を奪われるという背景もあるらしい。またシンハ氏には聖地をイスラーム教徒から取り戻す、という意図があったといわれる。

カシミールには臣民制度という藩王国時代からの古い決まりで、カシミールの土地はカシミール人にしか持つことができない。そのため、カシミール人の土地に対する愛着と特権意識は相当なものだ。よそ者に自分たちの土地を占有されるのを激しく嫌うのだ。

譲渡が発表されるとカシミールのイスラーム教徒たちは反発し、スリナガルを中心とする各地で抗議でもが頻発し、それに治安部隊や警察が発砲して、死者が出たため、事態は収拾不可能となり、一〇日間にもわたるゼネストの結果、譲渡は撤回された。

すると、今度は南のジャムーを中心とするヒンドゥー教徒たちがそれに反発した。インドのジャム・カシミール州はカシミールのイスラーム教徒が多数派を占め、南のジャムーや最北のラダックの人びとは自分たちが省みられないカシミール中心主義を常日頃から苦々しく思っていた。

ヒンドゥー教原理主義団体であるインド人民党(BJP)、世界ヒンドゥー協会(VHP)、シブ・セーナ、バジラング・ダルを中心とするアマルナート闘争委員会が結成され、それに一般市民が加わった。

彼らの抗議は過激だった。イスラーム教徒の家を焼いたり、時には警察署さえも襲撃した。決定的だったのは、山岳地帯であるカシミールへ物資を運ぶ唯一の補給路である国道一号線を封鎖してしまったのだ。

また、車を止めるだけでなく、カシミール人のドライバーのトラックを襲い、ドライバーに火炎瓶を投げるなど暴行をし、死者も出てしまった。また、カシミール人以外のドライバーも怖がってカシミールへ入らないようになった。

ジャムーで警察や軍隊も取り締まりはするが、ほとんど形だけのものだ。外出禁止令が発令されて人が外に出ても、帰るように諭すだけだ。残念ながら、インドではヒンドゥー教徒からイスラーム教徒への暴力には寛容なのである。しかし、カシミールでは棒で殴られ、撃たれる。

カシミールのすべての経済は破綻してしまった。農産物は出荷できずに腐っていった。食糧品、医薬品などが欠乏し始め、新聞などもページ数を減らして発行する始末だった。

ライフラインを絶たれたカシミールの人びとは激しく反発した。インド政府は、カシミールはインドの不可分の領土であるという。しかし、それなのに兵糧攻めをするようなインド政府のやりかたに背を向けたのだ。それまで、インドは憎いが本当に分離、独立するのは難しいし、リスクが高い。

インドなかで経済成長の恩恵を受けてなんとか上手くやっていければいい。殆どの人びとはこれまでそう思ってきた。だが、経済封鎖をされて、人びとは誰もインドともに居ようとは思わなくなってしまった。

そして、人びとはパキスタンへとつづくムザッファラバードへの道に活路を求めた。国道一号線は戦後軍需物資輸送用にできたもので、もともとこの道が古くからカシミールと外の世界を結ぶムガールロードと呼ばれる通商路なのである。
次のページへ ...

★新着記事