一週間ほど過ぎた頃、「教養所」のある谷のほうから、ちらほらと噂話が漏れ聞こえ始めた。将軍様の命令により誰かを銃殺する国家保衛部の銃声がしていたという噂だった。十日ほどたつと「管理所」中が蜂の巣をつついたように騒がしくなった。至る所で人々が噂をし始めた。
「あの時、奥の谷のほうで三〇分間銃声が鳴ってたけど、『申訴』した人たちを処刑してたらしいよ」
「方針」により銃殺された彼らの死体は、規定に従い、人知れずどこかで処理されたであろう。

それにしても、どうして国家保衛部が、社会安全部管轄の「管理所」内にずかずかと入り込んで、「移住民」たちを裁判もせずに処刑できるのか?
「18号管理所」は社会安全部の教化指導局の所属ではあるが、中央党の組織指導部や保衛部などの政治機関の「革命化」の懲罰対象者を収容し警備、管理するのが任務である。

したがって、保衛部が「移住民」を銃殺することを「管理所」は何もとがめない。いや、保衛部の前では手をこまねいて見ているしかない。
私の単純な考えではあるが、秘密警察国家である朝鮮では保衛部は一番力があるように思う。保衛部で急ぎの用務がある場合、社会安全部や政治部の上層部に一言「18号に用がある」と通告すれば終わりだ。

また、「管理所」に入れられた人には、「管理所」自体も手出しができない。「管理所」には「管理所」長、行政部所長、安全部長などが揃っているが、保衛部が「われわれは誰々の件で来た」と言えば、彼らも道をあけ、最敬礼で出迎える。保衛部が死刑を執行をすると言えば、せいぜい横で立って見ているか、周りを見張るのが関の山だ。

◆大逆転
さて、「申訴事件」は、その後どうなったか。
平壌へ戻れる喜びに沸き立っていた家族たちは、一転して窮地に追い込まれた。
19部安全部長には娘が二人、息子が一人いたが、既に結婚していた娘たちはかわいそうで見ていられないほどだった。ショックを受けた息子は仕事もせずぼおっとしているばかりで、誰もが「あの子は頭がおかしくなってしまった」と思ったほどだ。
だが、実はこの息子が賢い男だったのだ。

将軍様が陣頭指揮された「苦難の行軍=混乱の世」は行き着くところまで行き、落ち着きをみせはじめた九〇年代末から二〇〇〇年代初頭にかけて、「龍城事件」が深化組によって覆されると、「18号管理所」からはこの事件の関係者ら全員が、無実が解明され出所していった。
これに力を得た19部安全部長の息子は、「よし、申訴すればいけるかもしれないぞ」と思い、覚悟を決めて将軍様に申訴の手紙を書いた。

内容は正確にはわからないが、その申訴が将軍様に届いた。すぐに「18号」に再検閲が入った。二〇〇一年のことである。
検閲の結果、前回の処理は間違っていたという方向で結論が下りた。これにより、「方針」によって処刑された人達は一転して愛国者として名誉回復され、「管理所」内に残されていた家族たちは解除され、全員平壌に戻れることになった。娘は、元々金萬有(キム・マンユ)病院の社労青(注1)委員長をしていたのだが、聞くところによると元のポストに復帰したらしい。
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