脱北少年のキム・ハンギル君が描いた公開処刑の場面。住民を動員して「見物」させるという。(画集「涙で描いた祖国」〔2001年〕より)
脱北少年のキム・ハンギル君が描いた公開処刑の場面。住民を動員して「見物」させるという。(画集「涙で描いた祖国」〔2001年〕より)

 

シム・ウィチョン記者は平安南道平城(ピョンソン)市に住む四〇代の男性と、平壌市に住む三〇代の男性と会い、最近、順川(スンチョン)と元山(ウォンサン)で起きた事件について取材した。これらの事件は言論の自由のない北朝鮮社会の一端を実によく表している。以下はこれを整理した内容である。

その一 「石親分」の公開銃殺

◆「安企部」の金を幹部たちに?
二〇〇七年八月末、順川市のある工場の構内に多数の住民が集められ、当局による公開処刑が執行された。処刑されたのは順川の石材加工工場の支配人で、年齢は七〇歳だった。彼は周囲から「石親分」と呼ばれていた。
「石親分」の公開処刑は「三〇万人もの住民が強制的に動員されて見守る中で執行された」と地元の人たちは言った。三〇万人は誇大だと思うが、とにかく、動員された大勢の衆人環視の中で、両手を縛られた七〇歳の「石親分」に、保安員三名がそれぞれ三〇発(朝鮮の自動小銃一弾倉分)ずつ、計九〇発もの銃弾を浴びせたという。

一方、この「石親分」事件で多くの順川市幹部が無実の罪で職を追われた。その中には順川市保安署長や前順川市党責任秘書らもいた。前順川市党責任秘書は「お前も銃殺だな」と脅されているという。
「石親分」の罪状は、「ビナロン工場の設備を中国へ売り飛ばした」というものだったが、この工場はすでに稼動していなかったという。
一方でしきりに流布されていた「本当の」罪状は、「石親分」が「南朝鮮安企部」から金を受け取って、順川市のほとんど全ての党、行政の主要幹部たちを手なずけていたというものだった。噂によると彼の人物像は次のようなものだった。

「治安隊(注1)出身で、教化刑(注2)にも三度送られたが、前順川市党責任秘書を「買収」して(個人住民に関する)公的文書などを改ざんして自分の経歴をきれいにし、石材加工工場支配人すなわち「石親分」になった」
「若い女たちにマッサージをさせて遊ぶたびに一〇〇ドルの小遣いを渡していた」
今や存在もしない「安企部」の工作を理由に事件は作られたのであった。
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