山の木が伐採されつくした朝鮮は、豪雨があるとすぐ洪水が発生して農村地帯に被害が発生する。写真は水があふれた平壌市内の大同江。(2007年7月 朝鮮中央テレビより)
山の木が伐採されつくした朝鮮は、豪雨があるとすぐ洪水が発生して農村地帯に被害が発生する。写真は水があふれた平壌市内の大同江。(2007年7月 朝鮮中央テレビより)

 

3 二〇〇八年春の食糧危機の背景
◆気候条件
二〇〇七年夏、朝鮮半島の北部で水害が発生した。
平壌市も、中(チュン)区域で八〇センチ、平川(ピョンチョン)や牡丹峰(モランボン)、西城(ソソン)といった区域では一二〇センチ、普通江(ポトンガン)区域で一六〇センチの高さまで浸水した。

穀倉地帯でも同様に集中豪雨と浸水の被害を受けた。水害の発生原因は別にして、この水害により穀物収穫高は四〇%の減少が見込まれると朝鮮政府は発表した。
参考までに、朝鮮での記録的な水害としては一九六七年と一九九四年のものが挙げられる。
一九六七年には平壌市が平均四縲恁ワメートル水に浸かるという(浸水後二四時間の最高水位)記録的な被害が出た。大同江(デドンガン)と南江(ナムガン)の洪水と西海(ソヘ=黄海)の満潮が重なって発生したこの水害がきっかけとなって、大同江発電所、南江発電所、順川(スンチョン)、美林(ミリム)、西海に閘門(こうもん)が建設された。

一九九四年の水害は六七年よりも小規模だったが、ちょうどこの時、妙香山(ミョヒャンサン)の別荘で執務中だった金日成主席が心筋梗塞の発作を起こし、その治療のために平壌を出発したヘリコプターと車が水害による事故で到着が遅れ、これが主席死亡の直接原因となったと言われている。
食糧事情の面からこの二度の水害を見ると、一九六七年の水害当時、平壌市では市の六ヶ月分の食糧にあたる輸入物の小麦粉数万トンが袋ごと浸水した。

しかし、水害後、平壌市民の食糧供給は十分に行われた。これは、当時国家の食糧政策体系が正常に機能していたことを示す代表的な例だといえる。
水害直後、平壌では伝染病の腸チフスと大腸炎が流行したが、これに対する衛生保健対策も円滑であった。
しかし一九九四年の際はどうだったか?
水害の規模は六七年のものよりもはるかに小さいものだったが、甚大な食糧危機が到来した。

当時すでに、全国が配給途絶に陥っていたなかで、水害と、水害が原因で起こったとも言える指導者の死亡という事態までが重なった。
政府と軍の糧政(配給)関係者たちは、凄まじい勢いで食糧横領へと突き進んでいった。
今思えば、世界中の社会主義国で改革・開放が行われ、私的所有時代が到来する中で、朝鮮もいつかは同じ道を歩むだろうという予測が、こういう流れを引き起こしたと言えよう。そして、この流れはその当時も今も誰にも止められなくなっている。

一九九四年の水害は、餓死者まで発生した食糧危機の責任回避の口実に利用されただけだった。
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