闇市場の露天食堂で客の食べこぼした米粒を拾う男児。90年代飢饉の際に全国どこでも見られた悲しい光景であった。(1998年10月江原道元山市 アン・チョル撮影)
闇市場の露天食堂で客の食べこぼした米粒を拾う男児。90年代飢饉の際に全国どこでも見られた悲しい光景であった。(1998年10月江原道元山市 アン・チョル撮影)

 

5 一九九〇年代後半の食糧危機との違いと共通点
これまでにも少し触れたが、一九九〇年代の食糧危機は当初、労働者地区と都市で発生した。都市の住民が相対的に一番苦しい状況におかれ、都市で生活を維持できなくなった人たちが農村に流入してくることに対して、農村や僻地において否定的なムードが高まるという現象まで起きた。

しかし一年、二年と時が経つにつれ、生産設備の破壊や公共財産の盗難と密売が爆発的に増加し、都市と都市を繋ぐ全国的な市場ネットワークと、中国との大小さまざまな密輸ルートが形成され、さらに国際支援が届くなどして、都市部の食糧事情がある程度回復してくるにつれ、状況は変わってきた。

都市部住民の食糧依存度が、農村から外国へと傾くにつれ、孤立状態に陥った農村の貧窮化の進行が相対的に加速したのだ。疲弊した農民が離農する事態まで起き始め、食糧の生産力と消費の関係がばらばらになってしまったのが九〇年代の食糧危機だった。
このように、都市と農村の危機状況が、順を追うように、互いに影響しあいながら深刻化していったのだが、朝鮮政府にはそれに対処し、調整するだけの機能も意志も力もなく、食糧不足はさらに広がっていった。

結局、朝鮮式の統制経済システムの破壊は、都市から農村、そして社会全体に波及して国家的危機の「苦難の行軍」へと進行していったのである。
それでは、二〇〇八年の状況はどうか?

次のような要因から、九〇年代とは違う様相を見せるだろうと、筆者は予想している。
自然災害や配給制度の崩壊よりも、主に韓国の支援を始めとする外国からの物資導入に大きく頼っていた部分が断絶されたことが、今回の食糧難発生の主な原因であって、九〇年代のように旧社会主義市場崩壊の衝撃といった経済構造上の質的変化があったわけではない。

九〇年代には食糧が市場に出回ることについて制度的に厳しい制限があったが、現在は食糧の市場放出に関してそのような障害は存在しない。むしろ買い占め、売り惜しみのような原始的市場の特徴が現れたため、これを調節する必要に迫られていると言える。
このように未熟ではあるが、市場という流通機構が、食糧配給制度と並行して存在し、国家の無責任な態度からは一定の独立性を持ちながら機能しているのだ。

南北関係は円満でない部分があるにしろ、その窓口はいつでも機能できる状態にある。
また国際的にも、六カ国協議のような朝鮮を「主人公」とした討議装置が存在し、国際支援や借款は絶望的ではない。
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