081212_agus_0001.jpgアグス・ムリアワン
1973年インドネシア・バリ島生まれ。ガジャマダ大学~東京大学留学を経て、98年からアジアプレスに加わり、翌年、東ティモール取材を開始。野中章弘、綿井健陽らとともにNHK・ETV特集「独立にゆれる島・東ティモール」を制作。インドネシアからの独立を問う住民投票まで現地にとどまり取材を続けたが、反独立派民兵に殺害される。享年26歳。

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追悼アグス・ムリアワン
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秋は私とって弔いの季節である。アフガンで地雷を踏んで亡くなったカメラマンの南条直子、不治の病に倒れた、もっとも敬愛する編集者・今村淳、カレン民族の武装闘争へ身を投じて殉じた義勇兵・西川孝純。昨年、ビルマ(ミャンマー)で長井健司が殺害されたのも9月27日である。
― そして、東ティモールで非業の死を遂げたアジアプレスのジャーナリスト、アグス・ムリアワン...。彼の命日は9月25日である。

アグスには惨い死に方をさせてしまった。私は生きている限り、彼の死から「自由」になることはできない。「(アグスを)死なせてしまった」という「罪」の意識は決して消えない。
99年9月、東ティモールを支配していたインドネシア国軍は、人びとが住民投票で独立を選択したことへの報復として、全土で焼き討ちを行い、独立派に対する大規模な殺戮に乗り出した。

この焦土作戦を実行したのは、国軍の特殊部隊によって養成された民兵たちである。このならず者たちは国軍の命令を忠実に実行し、暴戻の限りを尽くして、人を殺し、家を破壊した。アグスはそのような暴力に巻き込まれ、命をかき消されてしまった。

事件が起きたのは、9月25日の夕刻である。アグスはカソリック教会の車で取材中、待ち受けていた民兵の襲撃を受け、同乗の神父や修道女ら7人とともに死亡した。
民兵たちは路上に石を並べて車を止め、一斉射撃を加えた後、車から逃げ出してきた人たちを鉈で殺害した。そして車に全員の遺体を詰め込み、川へ投げ落とした。

襲撃グループの首謀者ジョニ・マルケスは、「独立派を支援する教会関係者はすべて敵だ。殺害せよ」という命令を国軍の特殊部隊から受けていたという。この男は多国籍軍に逮捕される前、私たちの取材に応じて、「襲撃のとき、軍からもらった薬を飲んでいた。この薬は思考を停止させる。いまお前たちを殺せ、と命じられたら、躊躇なく実行できる」とうそぶいていた。殺戮を犯したという罪科の念はまったくない。

アグスとは彼がまだジョグジャカルタの名門ガジャマダ大学の学生だったころ、日本人留学生の紹介で会った。東京大学への留学経験もあり、片言の日本語を話す快活な学生だった。フォト・ジャーナリストを志望していたアグスは、このころから民主化運動の大きなうねりの中に身を起き、学生デモなどの写真を撮っていた。

彼は180センチを超える偉丈夫で、ボディビルで鍛えた筋肉質の身体から、あふれるような精気を発散させていた。眼の光にも勢いがあった。「この若者はいいジャーナリストになるな」。出会った瞬間、そう直感した。そのような私の勘はまずはずれない。

ちょうどそのとき、アグスが「ジャカルタからの夜行バスの中でカメラを盗まれ、写真が撮れない」と嘆いていたので、私の古いニコンFEを彼に渡した。インドネシアでは、30年以上もの長きにわたって君臨してきたスハルト体制が、ガラガラと音を立てて崩れようとしており、その後、アグスは独裁者の終焉の瞬間を何百枚もの印画紙に焼付け、私に送ってきたものである。

翌年、大学を卒業したアグスはアジアプレスに参加することになった。そして私が彼の最初の取材現場として選んだのが、独立の気運高まる東ティモールだった。99年2月、私とアグス、それに後にイラク戦争などの報道で活躍した綿井健陽の三人で、初めて東ティモールの地を踏むことになった。 (続く・全7回) 次(2)へ >> 
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