私たちはそれ以後、数回にわたって東ティモールを訪れ、国連やカソリック教会を相手にアグスの遺体を運び出すための交渉を行った。
家族は「亡骸はそのまま戻してほしい。故郷で火葬したい」との意向だったが、いったん熱帯の地で埋葬された遺骸は傷みが激しく、わずかな期間で屍蝋と化す。話し合いを重ねた末、現地で荼毘に付して骨と灰を持ち帰る、と決まった。
しかし、東ティモールを暫定的に統治している国連は、「検視を行うまで遺体を掘り返してはならない」と命じており、教会は土葬の習慣を破って、死者を火葬することに難色を示していた。結局、国連の検視も終わり、教会から荼毘に付すための許可が下りたのは、事件から3年後のことだった。
02年10月2日、私たちはアグスの父や弟、婚約者たちを伴い、バリ島から東ティモールへ舞い戻った。ディリに到着して休むまもなく、すぐ宿泊地のバウカウへ向かった。
翌早朝、事件現場を訪れて黙祷をささげた後、埋葬場所へ車を急がせた。墓地ではフィリピン人の神父が待っていた。彼は遺族のためにミサを行うために来ていたのだった。神父の祈りが終わってから、私たちは墓の掘り起こしに取りかかった。意外に穴は浅くて、黒いビニール袋にくるまれていた遺骸を見つけるまでに、そう長い時間はかからなかった。密封されているため、腐臭はまったく漏れてこない。
「村人たちには火葬するところを見せられない」という神父の要請を受け入れ、私たちは遺体を袋のまま海岸まで運んだ。浜辺には人影もなく、見渡す限りコバルトの空と群青に染まった大海原が広がっていた。私たちはあらかじめ用意していた薪でやぐらを組み、その上に亡き骸を置いた。火を点けたのは、アグスの父親と弟である。
アグスの骸は瞬く間に火炎に包まれた。ゆらゆらと揺らめく炎の向こう側に、南シナ海がゆったりと波を打っている。やがて烈火はメラメラと燃えあがり、あたりの空気を焦がし始めた。熱い...熱いな...朽ち果てたアグスの屍だけでなく、煩悩にまみれて汚れ切った私の肉体をも、何もかも焼き尽くすような激しい熱さである。
これはこの世の業をすべて焼いてしまう劫火なのか... もうすぐアグスは無に帰るのだな...アグスの肉体は昇華し、魂も天に向かう。灼熱の日差しにあぶられ、思考を止めた脳みその片隅で、私はそんなことを薄ぼんやりと考えていた。
火炎に焼かれた目を休めるため、少し離れた砂浜へ視線を向けたとき、妙なものが視界に入った。それは波打ち際から20メートルほどの所にある突起物で、何やら崩れた塁壁みたいな形状である。目を凝らしながら歩み寄れば、やはり60年前に造られた旧日本軍のトーチカだった。
【アグスの墓(00年12月 東ティモール東部フイロロ教会)】
かつて蘭領東インド(今のインドネシア)へ侵攻した日本軍は、東ティモールを占領してオーストラリア軍を主体とする連合軍と戦火を交えた。
そのとき、海岸線を防衛するために築いたトーチカの残骸だった。敗戦までの3年半、日本軍の圧政による飢餓や処刑、連合軍の空爆などで死んだ人びとの数は、2万人にのぼるという。
当時の血なまぐさい歴史を記憶する老人たちも存命であり、日本軍将兵の慰安婦とされた女性たちの告発はいまも続いている。
いまアグスを弔っている場所で耳を澄ませば、そんな日本への怨嗟の声も聞こえてくることだろう。
潮風にあおられ、火は勢いよく燃え盛っている。2時間もすればアグスの亡骸は骨と灰だけになるのだろう。
時折、新しい薪を足しながら、私は「アグスよ、安らかに眠れ」と胸のうちで繰り返す...だけど、そんなわけはないよなぁ、ともう一人の自分がすぐ反問する。
26歳で人生を閉じねばならなかったアグスは、星の数ほども「未練」や「悔い」を抱えながら逝ったはずである。さまざまな欲望や煩悩の何百万分の一も楽しむことがなかったに違いない。 (続く・全7回)次(7)へ> >
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