ベナンを出国してまもなく、私はナイジェリア側の国境の町ヤシケラに到着した。
往来は決して多くはないのであろう。イミグレーション(出入国管理)も税関も、まとめてひとつの建物の中で、1人の職員によって行われていた。その建物を見つけるのも一苦労。恐る恐る、襟を正して、中に入って行った。
西・中部アフリカ諸国の国境では、入国審査官からあからさまに賄賂を求められたことは少なくない。こちらに一切の後ろめたいことは無くとも、イミグレーションを訪ねるときの心持は、「恐る恐る」となってしまう。
薄暗い室内には男性職員が座っていた。よほど珍しいのか、私の顔を見て、しばし黙り込んでいる。スタンプをくださいと私が声をかけると、ようやく室内に招き入れてくれた。そもそも往来が多くないうえに、珍しい外国人、さらに珍しいアジア人。混乱している様子が、表情から見て取れた。
パスポートに押されたビザをじっと見ながら、「このビザはどこで取ったの?」と聞かれた。ビザにはトーゴと書かれているのが、トーゴのロメにあるナイジェリア大使館で取得したことを説明すると、しばし沈黙。その後、どこから来た、どこへ行く、といったやりとりが、沈黙をはさみながらしばし続いた。私は、これまでの道のりと、これからの旅路を、ゆっくりゆっくり、説明した。
「今日はここに泊まって行きなさい」
入国スタンプが押されたパスポートを私に戻しながら、彼はそう声をかけてくれた。
その晩、町の食堂で食事とビールをごちそうになりながら私は、日本のこと、私の旅、これまでに聞いたナイジェリアのウワサなどの話を続けた。彼は、噛み締めるようにうなづきながら、じっと耳を傾け続けていた。
私が眠る部屋は、イミグレーション内の一室。彼もそこで寝起きをしている。部屋に戻って、もう一本ビールを共にすることになった。
「私はね、ラゴスで生まれ、ラゴスで育ってきたんだ。ヤシケラに来る前は、ラゴスで仕事をしていたんだよ。ここに転勤するまで、ずっと。だから、ラゴスのことはよく知っている。
確かに、ラゴスは安全なところとは言えなくなってしまった。アブジャ(新首都)ができてから、ラゴスはほったらかしにされてしまっている。ラゴスをより良くしようと思う人は、残念ながらもういないんだ。でも、私はラゴスで生まれた。ラゴスは、私の町なんだ」
「きみが言うとおり、ナイジェリアすべてが危ないということは無い。ナイジェリアでの滞在をぜひ、楽しんでいってほしい」
ヤシケラを出発後も、ナイジェリアに滞在した日々は極めて快適だった。昼夜を問わず、不穏な空気を感じたことは一度も無い。不穏どころか、どの町のどんな場所を訪ねても、丁寧な応対が待っていた。外国人に対する興味心は伝わってくるものの、いつも節度ある距離感をとって接せられる。パッション丸出しの西アフリカを見てきた私には、この距離感が新鮮だった。
旅路で出会った人々との会話はいつも、きちんと整理されていた。やおら「空手を見せてくれ」などと話しかけられたことはない。私から話を終えると、彼らの仕事や住まい、家族構成などを、ゆっくり正確な説明が続く。私が話をしているときは、トーゴのナイジェリア大使のように穏やかに、ヤシケラの入国審査官のように噛み締めながら、みな耳を傾けてくれた。
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