慈江道に、代々長寿の家系として有名な一族がいたそうだ。
だが、その一族の人々でさえも、九〇年代に朝鮮を襲った大飢餓からは逃れられず、天命を全うできずにひとり、またひとりと亡くなっていったという。
だが、その一族の中で日本の統治下時代に黄海道にひとり嫁いだおばあさんが、けなげにも「苦難の行軍」の中を生き延び、めでたく一〇〇歳を迎えることになった。
おばあさんの住む村では国家が一〇〇歳を祝って、宴席を用意することになった。そのおばあさんは、一九〇八年の旧大韓帝国時代に生まれたという。亡国の悲しみも、光復の喜びも全て味わった、生きた朝鮮史のようなお人である。
話は、その宴の時のこと。
平和な時代でさえもめったにない一〇〇歳のお祝いは、食べ物が満足にない最近ではなおのこと珍しいということで、国家じきじきに宴席を設けることにし、先軍時代の慶事ということで、そのおばあさんの一〇〇歳祝いを広く世間に知らしめるべく記者を派遣した。
宴席には白髪の年老いた主人公が座っていたが、彼女の顔いっぱいに刻まれた無数のしわが、共和国の苦い真実を全て刻んでいるように見えた。
地区党から派遣されてきた「地区新聞」の記者が、この日の主人公に向けて丁重な質問をする。
「おばあさん! おばあさんの長寿の秘訣はなんですか?」
一〇〇歳の老婆にちゃんと聞こえているだろうかという記者の心配をよそに、答えはすぐさま跳ね返ってきた。
「わしゃ、『パルチャ』(注1)が悪くて、こんなにも長生きしてしもうたのさ」
最近の年寄りの、歯に衣着せぬ言葉遣いには慣れていた記者だったが、一〇〇歳を過ぎたお年寄りの言葉を、手帳に書き写していた細い手は、心なしか震えていた。
(※読者の皆さんの想像する通り、その記者の手帳には、『返事:将軍様と人民軍のおかげです』と書かれていた。朝鮮では仕方のないことである。)
横に座っていた七〇代になる娘と嫁が、一〇〇歳のおばあさんの言葉に相槌を打った。
「その通りや」
「まったく、まったく」
教員をしている年長の孫が、母親にしきりと「やめて」と目配せを送っている。
記者は、その場の雰囲気を変えようと、次は違う質問をした。
「おじいさんが亡くなってから、もう随分経つんですか?」
「ああ、そうやね。あの人は、『パルチャ』がいい人やから」
「早く亡くなった方が、『パルチャ』がいいんですか?」
まったく想定外の問答が続くことに、記者は面食らった表情だ。
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