盛大な追悼式を催す代わりに、自宅で身内だけの簡単な式を行い、浮いたお金を貧しい人に寄付する遺族もいる。また、週末には、甘いナツメヤシの実を商店で一箱買い、他のお客にふるまうため、レジの横に置いてゆく人もいる。こうした寄付やふるまいは、死者の魂を安らかにし、その旅路を平穏なものとするためだ。
映画「おくりびと」の魅力の一つは、日本人ですら気づかなかった、死者をおくる様式美に触れることだ。イランにはイランの、イスラムにはイスラムの、死者をおくる様式美というものがあるのなら、それを見てみたい。そう思って訪ねたベヘシュト・ザハラーの遺体洗浄場だったが、彼らの仕事の中に、洗練された美はなかった。彼らの仕事は、死者を清めるというよりも、埋葬後の、腐敗による臭気や伝染病の発生を防ぐための処置という意味合いの方が強い。
この違いは、現世を仮の住処とし、来世の永遠こそを重んじるイスラムの死生観によるものだろう。イスラムでは、残された遺族にとって何より重要なのは、死者の来世での魂の安らぎであり、死者が楽園にゆけるかどうかだ。残された遺族の心情を慮ることではない。そのため、遺体の洗浄に様式美が伴う必要は全くないのだ。
では、遺族の心情に重きを置く、日本の納棺師のような仕事は、イスラムの死生観の前では無意味な存在となってしまうのだろうか。
後日、映画「おくりびと」を観たイラン人の友人は、その感想をこう述べた。
「納棺師の仕事によって、残された人の心が救われたり、考え方が変わったりする。それだけでも、とても意味のある仕事だと思う」
人の心は、時に、宗教や習慣の違いを容易に乗り越えてしまえるほど、柔軟なものなのかもしれない。さもなければ、この映画がオスカーを取ることなど、なかっただろう。(おわり)