勇士は中学校で陸上競技に励み、生徒会長も務めるなど、真面目な努力家と目された。理科と数学が得意で、将来は技術者になりたいと、東京都立航空工業高等専門学校電子工学科に進んだ。そして、東京都立大学工学部電気工学科3年生に編入学した。
しかし、都立大学での講義内容や学習環境に物足りなさを覚えた勇士は、アメリカの理工系大学に留学する望みを抱いて、4年生の秋に退学し、留学資金を貯めるために働くことにした。1997年10月、就職情報誌でネクスターのことを知り、入社した。
ニコン熊谷製作所で働きだしたのは、同年10月27日からである。初めて親元を離れて、熊谷市内のネクスターの寮に同僚と2人で住んだ。
それから勇士は亡くなる直前の1999年2月25日まで、主に昼夜交替勤務に従事した。それは、午前8時30分から午後7時30分までの昼勤と、午後8時30分から翌日午前7時30分までの夜勤を組み合わせたものだ。昼勤も夜勤も、それぞれ1時間と15分の休憩、10分のリフレッシュタイムがある。
昼勤2日・休日1日・夜勤3日・休日3日・昼勤4日・休日1日・夜勤3日・休日4日というローテーションで働き、ちょうど3週間で1サイクルになる。
そのため睡眠と食事が不規則にならざるをえず、勇士はのり子に電話や帰省したときの会話で、
「よく眠れない」「胃が痛い」「疲れがとれない」など、体調不良をしきりに訴えていた。
~つづく~(文中敬称略)
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