勇士をはじめネクスターからの労働者の就労形態は、業務請負とは名ばかりで、実態は人材派遣だった。それをネクスターとニコンは否定している。しかし、職場ではニコンの社員が直接、業務指示をしており、ネクスターの社員が製作所内に常駐して業務指示をしていたわけではないことなどからして、事実上、人材派遣であり、いわゆる「偽装請負」にあたっていた。
1999年1月24日から2月7日まで、勇士はほとんど朝8時過ぎから夜の9~12時過ぎまで、15日間も休日なしに連続勤務をした。1日の労働時間は最長で14時間、1日あたりの平均労働時間は約11時間にもなった。
それは初めてのソフト検査実習だったが、ニコンの指導員が休みを取って出勤してこない日が2日、また指導員が勇士より先に退社した日が3日あった。初めての業務を長時間続ける勇士へのサポート態勢は不充分だったといえる。
この15日間連続勤務は勇士の心身の不調をさらに悪化させたと思われる。勇士は1999年2月下旬に休日で実家に帰ったとき、ぽつんと「理科の簡単な問題も解けなくなってしまった」と言った。いまにも泣きだしそうな苦しげな表情を見せることもあった。
ニコン熊谷製作所で働きだす前は65キロあった体重は、52キロにまで減っていた。痛々しい息子の様子にショックを受けたのり子に、勇士は「もう辞めてくるから」と言った。
そして、勇士はネクスターの熊谷営業所に退職を申し出た。しかし、「契約上の定めもあり、今月末の退職は難しいと思う。ニコンとの打ち合わせも必要なので、退職の申し出には即答できない」と返答された。その旨をのり子に、電話で気落ちした声で伝えてきた。
1999年2月26日から勇士は無断欠勤を続けた。ニコンは勇士に電話をしたが、つながらなかった。無断欠勤のことをネクスターがニコンから知らされたのは、3月3日であり、勇士の退職申し出を初めてニコンに伝えた際にだった。ネクスターは勇士に電話をし、留守番電話にメッセージを残したが、連絡はなかった。
のり子もこの頃、何度も勇士に電話して、留守番電話にメッセージを残したが、やはり連絡はなかった。出張に行っているのかと思ったが、心配になったので、3月10日にネクスターに電話したところ、ネクスターの社員が勇士のアパートを訪ね、遺体が発見されたのだった。 ~つづく~
(文中敬称略)