老人は、真夏に着るには相応しくない黒い背広の内ポケットに手を突っ込み、タバコ入れを取り出した。そして、その中からよく揉んだドクチョ(とても苦く、きついタバコ)の残りをごつごつした指でいくつか摘んで、乾かして小さく切っておいた労働新聞にのせ、くるくると巻き始めた。次に巻き終わった紙の端に口を当て、唾をつけて軽く押さえてやるとあっと言う間に立派なタバコが出来上がった。
そのタバコをくわえ、息子がくれたライターで火を点け、煙を吸い込むとやっと気持ちが落ち着いた。もう一度タバコの煙を深く吐き出してから、老人はメニューに視線を戻した。
今度は文字を見ずに、値段を書いた数字だけに目を通した。思った通り二〇〇ウォンや一〇〇ウォンのものもあったではないか! 腹が据わってきた老人は「フン!」と鼻息も荒く、「真っ赤な唇」に二〇〇ウォンと一〇〇ウォンのものを指し示した。
「真っ赤な唇」は、こっくりと頷いて、そそくさと消えて行ったかと思うと、マイクを手にすぐに戻ってきた。タバコを吸ったおかげで出てきた勢いのまま老人が尋ねた。
「これは何だね?」
「カラオケです。」
「何? カラ、オケ?」
「ここにある番号を押すと音楽が流れてきます。」
老人は渡されるままにマイクを受け取ったが、事情が飲み込めなかった。
「ああ、そうか! 最近ジャンマダン(市場)で『サービ』(サービスのこと)ってのがあるって聞いたが、これがそうか。親切でいいや」
老人はマイクの持ち手にある数字を押して、曲が流れてくるのを待った。
「なんだ? なぜうんともすんとも言わんのだ?」
見回してみても「真っ赤な唇」の姿は無かった。
〈ちぇっ、押すところを間違ったようだ〉
さっきの番号をまた押してみた。だが結果は同じだった。番号を逆から押してみたり、マイクを耳に当てて振ってみたりもした。仕舞いにはマイクに向かい「あー、あー」と声を出してみたりしていたが、ふと辺りを見回すと、周りの客がこっちを見ながら何やら文句を言っている。中には文句を通り越して罵声まで聞こえるではないか。
「うーん。サービだからカラオケを早くよこせっていうことか? ひょっとしてワシがドクチョを吸ってるからって非難しやがるのか? エーイ、もうやめだ」
すっかり興ざめしてしまった老人は、カラオケをテーブルの上にポンと放り出した。すると一人の若者がどこからともなく現れて、さっとマイクを持って行ったかと思うと唄いだしたのだが、どういう訳だかちゃんと音楽が流れて歌えているではないか。
「やられちまったな。こうなったら最後まで強気で行くしかないな。それにしてもどうして食べ物は持って来ないんだ?」
待ちくたびれた老人が、あたりをキョロキョロと見回すと、いつの間にかさっきの「真っ赤な唇」が横に立っていた。手にしたお盆には何かがのっていた。老人は体を後ろに反らしたまま紳士らしく座り、テーブルを凝視した。
「真っ赤な唇」はテーブルに白いティッシュを一枚綺麗に置き、その上に木の枝を一本、宮廷女官のような細くて白い指でそっと置いた。
「なんだ、これは?」
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