大村一朗のテヘランつぶやき日記~デモ逮捕者の死刑判決に思う 2009/10/11
10月10日、折りしも世界死刑廃止デーの当日、イラン国営メディアは6月に行なわれた大統領選挙後の暴動での逮捕者のうち、3人に死刑判決が下されたと報じた。まだ確定ではなく、控訴が可能だという。
この3名は、イランの反体制テロ組織MKO(モジャーヘディーネ・ハルグ)や、旧パフラヴィー王政の復活をもくろむイラン王立協会とつながりがあったとされ、うち1名はイラクでアメリカの政府関係者とも接触していたという。海外の勢力と結託し、体制転覆を目論んだというのが罪状だ。
この罪状が事実であれば、選挙後にデモに加わった改革派の市民でさえ、彼らに同情はしないだろう。MKOはこれまで多くのイラン市民を殺害してきたし、今更、王制の復活を望む市民などイランにはいないのだから。
だが、この罪状が事実かどうかは、もう誰にも分からない。
この数ヶ月間、市民の抗議の声をすべて外国政府の陰謀で片付け、民兵やメディアを駆使して市民に恐怖心を植え付け、逮捕した改革派政治家らの公判では旧ソ連さながらの自己批判を行なわせ、拘置所でのデモ逮捕者への性的暴行に対する改革派からの調査依頼には、強硬派で固めた調査委員会が体制への侮辱を理由に恫喝で応じ、権力を、それを維持するための道具として最大限利用してきたこの国の政府が、今回の裁判で被告人らにどのような罪状を並べようとも、もはや多くの市民にはそれを信じるだけの理由が失われているのである。
しかし、アフマディネジャードに投票した体制支持派の市民たちは、きっとこう信じているだろう。つまり、今回の暴動は外国政府とメディアが周到に画策したものであり、自分たちの敗北を覆すためにそれを利用しようとした改革派の政治家らは売国奴として逮捕されて当然であり、彼らを支持し、体制を危機に去らず市民には厳格に対処すべきであり、神聖なイスラム体制において刑務所での性的暴行などあるはずがない、と。彼らには今回の判決を疑う理由など何もないに違いない。
どちらがどこまで正しいのか、僕には正直、分からない。
自分の声を政治に届けようとする純粋なデモを見た。一方で、ただ暴れたいだけの、日々の鬱憤を晴らすための暴動も確かにあっただろう。デモ隊を正義、治安部隊を悪と断じる海外メディアのステレオタイプな報道には、そこに政治的な意図がなかったと言い切れるだろうか。
このまたとない機会に、反体制テロ組織が黙って傍観していたなどと言えるだろうか。69名という一連のデモでの死亡者数を、過剰な弾圧による犠牲者と見るべきか、それとも、体制崩壊を防ぐために払った最小限の犠牲と見るべきなのか。そもそも、ムーサヴィーは本当に選挙に勝利していたのか否か。
時間が経っても、分からないことだらけだ。報道する人間には、どこかしら軸足を置くべき、それこそが正義と信じる場所が必要なのだろうが、僕は今なおその場所が決められないでいる。
だから今、3人の若者の死刑判決という痛ましいニュースを目にしても、僕の心に湧き上がる怒りや失望には、拠り所となる確信がないのである。