大村一朗のテヘランつぶやき日記 アメリカ大使館占拠記念日(1) 2009/11/04
11月4日。今朝は、この秋一番の冷え込みだった。
昨日は、テヘランにしては珍しく、朝からの雨が終日降り続き、深夜には暴風雨になった。このままもう一日雨が続けば、明日のデモも中止かな、などと淡い期待が胸をよぎったが、一夜明け、朝の目覚ましがなったときには、まぶしい朝日がカーテンの隙間からこぼれていた。
行くしかないなあ、でもどこへ行こう……、と布団の中で考える。
今日、11月4日、イラン暦アーバーン月13日はアメリカ大使館占拠記念日である。1979年、イスラム革命が勝利したその年、急進派学生たちが、「スパイの巣窟」とされたアメリカ大使館を急襲、占拠し、大使館員らを444日間に渡って人質にとった。それ以来、この日は反米、反覇権主義の記念日となり、また、学生の日ともされている。
毎年この日には、保守派の学生たちが旧アメリカ大使館前に集い、「アメリカに死を」、「イスラエルに死を」のお決まりのスローガンが叫ばれる。そうした官製デモには興味はないが、今年は違う。9月に行なわれた「世界ゴッツの日」同様、改革派が便乗デモを呼びかけているのだ。
しかし、改革派は場所を発表していなかった。恐らく、これまで集合場所や行進ルートを事前に発表したことで、治安部隊や体制派市民に先を越されてきた経緯から、今回あえて未発表にしたものと思われる。体制派はもちろん旧アメリカ大使館前に集合することになっているが、改革派のデモは、恐らく市内のいくつかの中心的広場で分散して行なわれることになるだろう。
旧アメリカ大使館にも近く、これまでのほとんどのデモの舞台となってきたハフテティール広場ならハズレはないだろうと目星をつけた。
布団から這い出てテレビをつけると、旧アメリカ大使館前でのセレモニーは朝10時から始まるという。9時過ぎ、家を出た。市街北部に連なるアルボルズ山脈が、昨夜の嵐のせいで真っ白に冠雪していた。
朝のバスは込んでいる。インフルエンザはイランでも広がりつつあるが、満員のバスの中でもマスクをつけている人は一人もいない。僕は持ってきたマスクをつけようとしたが、あろうことか耳に回すゴムが片方切れていた。下駄の鼻緒が切れたような嫌な気分だった。
しかし、実際、今日のデモはそれほど恐れるには価しない、と僕は自分に言い聞かせた。記念日といっても、平日だ。仕事のある一般の人が参加できる時間帯じゃない。改革派のデモの規模は、1ヵ月半前のゴッツの日ほど膨れ上がることはないだろう、と考えた。
20分ほどでバスはヴァリアスル広場に近づいた。繁華なこの広場には、平日の午前中にふさわしい人出が見られたが、店という店は破壊や焼き討ちを恐れて軒並みシャッターを降ろしている。そして、街路の至るところに5人、10人のグループで警備にあたる治安部隊の姿があった。
目指すハフテティール広場まであと1キロほどだというのに、道路は車両通行止めで、バスはこれより先には進めないという。バスや車を降りた人々の群れが、歩行者天国となった広い道路を、ハフテティール広場へと流れてゆく。
そのときだった。若い男女5、6人のグループが、改革派のシンボルであるピースサインを高々と掲げ、「ヤー、ホセイン!ミールホセイン!」(※)と叫んだのだ。次の瞬間、周囲の数十人が、その次の掛け声ではさらに多くの人が、そして、声は瞬く間に水の波紋のように広がり、あっという間に1千人近い人たちが一斉に声を上げていた。
大地を揺るがすような叫びの中で、僕は胸をわしづかみにされたかのように、ひとり呆然と立ち尽くしていた。 (つづく)
※ ホセインは預言者ムハンマドの孫であり、シーア派3代目イマーム。シーア派イスラム教徒にとって抵抗と殉教というイデオロギーの象徴的存在。ミールホセインはムーサヴィーのファーストネーム。