盗みを覚える
しかし勉強より大事なことがあった。幸せや夢を抱く歳頃の少女なのに、私は商売に出なければならなかった。しかもそれは簡単ではなかった。結局、私は食べていく術がなくなり、工場に行って盗みまでするようになった。
学校に通いながらも、私は家の近所にあるマグネシウム工場のコークスを盗み、かまどに火をともした。マグネシウム工場はコークスがないと機械が動かせなくなるが、そんなことを考える余裕はなかった。すぐにも飢え死に、凍え死にしそうなのに、他のことは考えることすらなかった。
蒸気機関車に使うコークスも盗みの格好の標的だった。機関車の運転手たちは、コークスの塊をみんな盗られてしまったら、どうやって汽車を動かせるのかと怒っていた。
しかし彼らは盗みを防ぎきることはできない。私たち子どもも、殴られるぐらいのことはこわがらなくなっていたのである。殴られても盗み続けるのだ。その一方、80里(朝鮮では1キロ=4里)の道のりを、リヤカーを引いて山に行き、たき木を切ったりもした。それも不法なので、捕まると、のことおのを没収された。
木を切り倒したり、(隠し畑を)耕すこともこっそりやった。
ある時は午前3時に起きて、よその家の土塀を作りに行ったこともあった。お父さんと兄さんといっしょに行った。一日中、土を掘ってこねる仕事はとにかく苦しかった。
ろくに食べることもできずにやるので、その辛いこと。粥だけを食べてこんな仕事をするので、体が刀で切られるように痛むのだが、がまんするしかなかった。
けれども私たち三兄妹は、ともに手を取り合いながらお父さんの仕事を一生懸命手伝った。
どれほど仕事が辛くても、夜になれば家族全員集まってにぎやかに時間を過ごした。兄さんはアコーディオンを弾き、私は歌を歌った。お父さんとお母さん、そして弟は踊った。
いつのまにか、近所の人も集まりだし、いっしょに楽しく遊んだことがなつかしい。こんなふうに楽天的な気持ちで生活をしていると、食べ物がなくても、お腹がいっぱいになったような気がした。
しかし、そんな日もだんだんと少なくなっていった。
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