リ・ファヨン(キルスの従姉妹)
16歳。咸鏡南道・端川(タンチョン)生まれ。両親、兄弟とともに1999年1月に北朝鮮脱出。中国で食堂で仕事をしていた母は、公安に摘発され北朝鮮に一度強制送還される。

私は両親の温かいぬくもりの中で育った。
北朝鮮の普通の少女として、希望に満ちた明日を夢見ていた。しかし胸の中に花咲いていた夢と幸福は、年月が経つにつれ、泡のように消えていった。

これが「人間中心の社会」なのか 主体思想を勉強するときには、耳にたこができるほど「人間中心の社会」だと言っていたのに、今の人民の命はハエの命ほどのものです。病気になった人が道端で行き倒れて死んでも、だれも振り向きもしない世の中になってしまいました。 ―キルス
これが「人間中心の社会」なのか
主体思想を勉強するときには、耳にたこができるほど「人間中心の社会」だと言っていたのに、今の人民の命はハエの命ほどのものです。病気になった人が道端で行き倒れて死んでも、だれも振り向きもしない世の中になってしまいました。 ―キルス

 

人民学校の頃
私はなごやかな家庭の二男一女の長女として生まれた。
私が人民学校(※北朝鮮の義務教育は、人民学校4年、中学校6年)に通っていたころはどうだったろう?

父は、貧しかったが善良で純朴な人であった。父は給料もまともに出ない工場に真面目に通っていた。一方、母さんはいつも鼻をわずらっていた。
鼻の病気を治すためには、道庁所在地の咸興市に行き、手術を受けなくてはならなかった。しかし病院に入院するためには、担当医師はもちろん看護員をふくめ、課長先生にまで、彼らが食べるだけの食糧を、患者が出してあげなければならなかった。

しかしわが家は貧乏なので、母の病院費を捻出することさえも、とても難しかった。
それで、私たち家族は皆で母の病院費用を作るために、商売に精を出した。

私がジャンマダン(闇市場)で商売しようとすると、学校の先生やクラスメート、そして、9・27部隊(注・1997年9月27日に、金正日が「浮浪児を収容せよ」と指示。それで、子ども専用の収容施設を9・27と一般に呼ぶようになった)などの目を気にしなければならなかった。私のような子どもが商売に出るということは、星をうち落とすようなこと(あまりに難しいこと)

なのである。そのような状況の中でも、私たち家族は一生懸命お金を集め、なんとか母の手術費用を作ることができた。
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