しかし、一度目の手術はうまくいかなかった。
私たちは再び手術費用を作らなければならなかった。今や病院費用どころではなく、私たちが食べるための食糧さえもなくなってしまっていた。その時以来、私はいつも憤りに満ち、やるせない気持ちだった。
幹部の家の子どもたちは、服を買い、輸入品の万年筆を使い、ボールペンもよく使っていた。私たちのような貧乏な労働者の家の子どもたちは食べ物がなく、草をむしり粥にしてすすり、親戚の家を回らなければならないのに......。
また、近所では、たくさんの子どもたちが道端で倒れたり、死んでいる姿をひんぱんに見かけるようになった。しかし死んでゆく姿にだれひとりとして関心を示さなくなった。
私の家も生活がだんだん苦しくなってきた。それからは学校どころか、それまで通っていた音楽小組(サークル)にも通えなくなり追い出されてしまった。
それまで音楽の素質があるからと父がなんとか買ってくれたアコーディオンを習うため、音楽小組活動をしていたのだ。
しかしいくら病院は無償治療だ、学校は無料教育だと言っても、実際はすべて、幹部にだけ暮らしやすい世界であり、私たちのような人民たちのための世の中ではなかった。
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