私たちが暮らしてきた社会は人民大衆の社会ではなく、幹部のための世である。
しかし宣伝スローガンだけは立派だ。
「人民のために服務する」
ある幹部の家に行くと、年を経るごとに家の中の雰囲気が違っていった。
一度訪れてみるとテレビが買ってあった。その次に行ってみると、テープレコーダーがあって...。食生活の水準もわが家とは比較にならないほど良かった。
それで、外国への労務輸出(出かせぎ労働)に出て金を稼いでみるのがいいだろうと思い、何度か申請をしてみた。その結果、九六年に初めてソ連(ロシア)での伐採工に選抜されたと連絡が来た。
その時のうれしさといったら、言葉では言い表せないほどであった。妻はもちろん家族全員で協力して必要な費用を作るためにがんばった。
費用の足しにするために子どもたちが大事にしていたアコーディオンも売った。
父さんが外国でお金をもうけてきたらもっと良いのを買ってきてあげるからと、子どもたちを説得した。子どもたちは惜しいといって残念がったが、私の言葉を聞き入れてくれた。
また、近くに住む兄弟のところを訪ね、スルメをゆずってもらったりもした。(注・ワイロのため)
その後、書類を作成し、身体検査を受けて、道庁にまで行った。道の党課長と指導員に身体検査証をもらってきて、人民病院で身体検査まで終えた。しかし道庁では次の指示があるまで家に戻って待てというのだ。一日、二日、一カ月......。何の連絡もなかった。
のちに知ったことであるが、外国に労務者を派遣する時に必要な外貨が、国家にはないというのである。
こうして、最初の労務者として外国に出る夢はやぶれてしまった。
(つづく)
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