【キャルバラの戦いでフセイン軍全滅後、フセイン軍の婦女子らは捕虜としてウマイヤ朝の首都ダマスクスへと夜の砂漠を連行された。その暗闇と不安に明かりを灯そうと、アーシュラーの夜、市民は持ち寄ったロウソクに火を灯し、1400年前の悲劇に思いを馳せる(撮影・筆者)】(2009/12/27)
大村一朗のテヘランつぶやき日記 ・アーシュラーの騒乱2 2009/12/27
イマームホセイン広場を過ぎると、もう大きな広場もなく、バスはテヘランの街外れへと向かって行くだけだ。僕はいくつかのバス停をやり過ごした後、バスを降りた。
これまで何度も浮かんだ疑問がまだ浮かぶ。自分はいったい何のためにこんなことをしているのだろう。取材らしい取材も出来ず、写真も撮れず、そもそも大手メディアに発表する気もない。自分がやらなくても、今夜のBBCやVOAには市民の撮った写真や動画、そして彼ら自身の生の声が無数に寄せられ、真実の多くを語ってくれることだろう。それ以上の仕事、役割を、自分が担えるとは思えない。ならば何のために今日、ここに来ているのか。
治安部隊のバイクが20台ほど、そしてその後を追うように救急車が一台、イマームホセイン広場に向かって疾走してゆく。しばらく逡巡した後、僕は市街中心部へ戻るバスに乗り込んだ。
しかし、今度のバスは、イマームホセイン広場にすら行かず、その1キロほども手前で迂回路に入ってしまった。
ひょっとしたら、往路で通らなかった区間の一部でも今度のバスが通ってくれるかもしれないと期待していたのだが、どうやら市街の状況はより混乱を増しているらしい。
バスは渋滞にはまり、午後2時前、僕は諦めて地下鉄に乗り換えた。大幅に遅刻だが、もう勤め先に向かわなければならない時間だった。
この日の夜の報道では、結局僕が目にすることが出来なかったエンゲラーブ広場からイマームホセイン広場までの区間で大規模な騒乱が発生し、国営メディアで死者4名、拘束者300名が伝えられた。
当局の発表では、死者4名のうち、1名は陸橋の上から何者かによって落とされ、2名は交通事故に遭い、1名は何者かによって銃撃され、警察は全ての事例について捜査を進めているという。
銃撃によって亡くなった1名は、改革派の指導者ミールホセイン・ムーサヴィーの20歳の甥である。当局はこの日、一発の実弾も撃っていないと発表した。
国営テレビはこの日、暴徒らがアーシュラーの追悼行事を襲撃したり、車両に放火したり、公共財を破壊したとし、イランの反体制派組織MKOの工作員数名を逮捕したと報じた。
革命防衛隊に近いファールス通信も、この日の死者4名が、こうした国外要因の工作によるものであり、死者から検出された銃弾もそうしたテログループが使用する非常に稀なタイプのものだと報じた。
テレビでは、マイクを向けられた市民が、暴徒による破壊活動をよどみなく非難して見せるインタビュー映像が繰り返し流れた。曰く、「当局はもっと断固たる対応を!」、「やつらは何の目的があって公共財を破壊するのか?」、「謀略だ!」、「アメリカの手先だ!」、「我々の敵だ!」……。
コーランには、敵対する者、アッラーの道を遮る者とは妥協なく戦えと繰り返し述べられている。この国の政府は、改革派という、同じイスラム教徒であり、同じイラン人である一部の市民をすでに‘敵’と見なし、体制派市民にもそう喧伝して憚らない。
同じように、抗議デモに参加している改革派市民も、現体制の指導部を明確に自らの敵と見なしている。政府による弾圧は日に日に激しさを増してゆき、それに対する改革派の抵抗も、より破壊的なものになってゆくだろう。(おわり)