生きる方法は脱出のみ [その3]
(文) リ・ドンハク [キルスの伯父・ファヨンの父]
私と家族全員が、3年間大切に抱いてきた、労務輸出で稼ぐというささやかな夢は、粉々になってしまった。夢が破れてしまった私は、罪責感でしばらくの間、虚脱状態から抜け出せなかった。
労働輸出対外労務、それは家族全員の希望であり願いであり、また家族全員の血と汗で作ろうとした夢でもあった。
[お前たちには人間の基本的な良心さえもない。誠実な人間を愚弄するお前たちが憎らしく、お前たちのような奴がはびこる社会が憎らしく、お前たちのような奴を柱としている社会が本当に憎らしい。ああ、お前たちと同じ空のもとでは生きてはいけない]北朝鮮という社会で生きていくのが、心底いやになってしまった。
しかし、だからといって家長である私は、いつまでも絶望と虚脱に落ち込んでいるわけにはいかなかった。労働輸出による夢は潰えても、明日のために妻と子どもたちは「生活戦線」で戦っているではないか。
「生活戦線」とは北朝鮮の辞書にもない言葉である。
食べ生き長らえるために、あれこれ努力することを「生活戦線」というのだ。
しかし、それは全国どこに行っても聞くことができる言葉であり、また老若男女を問わず、だれもが使う言葉になった。この言葉はおそらく1990年代初めに新たに生まれた言葉であるはずだ。
子どもたちも両親を助けるために、幼くして「生活戦線」に出た。学校にも行かず、「生活戦線」の一員になってしまったのは96年の初めからであった。
北朝鮮に吹きつけたひどい食糧難の嵐によって人々は山に野に散らばり始めた。
草が生い茂る時には、どこの家でもそれが唯一の食べ物であることが多かった。
ある時、食べてみろと、職場でまっ黒なもちを一つずつ配られたことがあった。
説明によれば、「万景台一号」という薬であった。これは五種類の木の葉っぱと草を混ぜて作ったものである。その薬があればどんな木の葉っぱでも草でも食べ物が作れると言うのだ。私も食べてみたが黄ウルシの葉のような臭いがし、苦くて口当たりもひどかった。他の人も同じような感想だった。
その場にいた人々が口々に言った。
「人間が草と木の葉をみんな食ってしまったら、ヒツジやヤギなどの家畜は何を食っていくんだろうな」
「自分たちの食うものを人間が全部食っちまったといって、家畜どもが代わりに米でもくれと言ってきたらどうする?」
「いっそ、動物の胃を引っ張り出して人の胃に入れてしまえば、どんな草でも食えるのにな」
「それができたらどれだけいいだろう。牛を見てみろよ。毎日、草だけ食べても力があるぜ」
皆が笑った。
人民班(注・行政の最小単位。隣組のようなもの)でも、その薬で食べ物を作ることができると紹介、宣伝していた。
けれど、しばらくすると、そんな話はだれもしなくなった。(つづく)
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(文) リ・ドンハク [キルスの伯父・ファヨンの父]
48歳。咸鏡北道花台郡出身。労働党員であったが1999年1月に北朝鮮脱出北朝鮮では製錬所、建設企業所の、副職場長などを務めた。
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