生活に追われる若者の不安、恨み、そして失望 3
取材・整理 リ・ジンス(二〇〇九年六月取材)
〈インタビュー2〉ペ・ヨンスさん 二五歳男性 上
二五歳のこの男性は、チェ・スミさんと同じく咸鏡北道清津市から中国へと一時的に越境。病弱な母親と軍隊を栄養失調で除隊になって帰って来た兄と一緒に生活をしている。
父親は彼が八歳の時、「苦難の行軍」期の最中に死亡。家族が生き延びるために精一杯だったため、人民学校(日本の小学校にあたる四年制)にしか通えなかった。配置された職場には出ず、荷物運びやタイル貼りなどの雑用をして生活費を稼いで来た。市場経済の拡がりに伴って発生した「自由労働者」だと言えよう。
だが、〇九年に入って経済が急速に悪化し仕事が減って現金収入が激減。農繁期の畑仕事を手伝って稼ごうと、一か八か中国に越境してきた。
生活
Q:お兄さんとお母さんとの三人の生活と仕事について聞かせてください。
A:現在家族の中で働けるのが私だけです。母は病気ですし、兄も軍隊で栄養失調になってしまった上、結核を患っているので働けません。仕事は、駅前に出て乗客の荷物を運んだり、個人の家で頼まれるタイルの張り替えや修繕などの雑用をして、お金を稼いでいます。清津には海があるので、流れ着いた海藻類を拾って乾かして内陸の村に持って行って売ったりもします。農村では海藻は重宝されますから。その日その日の稼ぎで生計を維持しています。
Q:企業所には配置されていないんですか?
A:いえ、配置されています。でも出勤しても給料はないし配給もくれないので行きません。出勤なんてしていたら餓死してしまいます。家には病人もいるし、家賃も払わないといけないし、食べていかなければならないので、職場に一定の金を納めて、自由になる時間をもらっています。多い時はひと月に一五〇〇〇ウォンも出さなければなりません。一〇〇〇〇ウォンの時もありますが......。
Q:一日どれくらいの収入になるんですか?
A:たくさん稼げる日は三〇〇〇ウォン、少ない日は五〇〇ウォンか一〇〇〇ウォンくらいです。食事はトウモロコシのソバを買ってそれで三食食べます。一キロが大体一〇〇〇ウォンくらいなので、一・五キロくらい買えたら一家でなんとか食べていけます。足りない時は朝と晩だけ食べます。朝はソバを食べて、昼と夜はソバをおかゆのようにして食べます。稼げない日はお粥だけ食べるか、一食だけ食べたりします。
Q:副食物は?
A:普通は塩だけです。味噌などはたまに買いますが、そんな余裕があるなら、兄と母の薬を買わなければならないし......。肉は売っているのをながめるだけです。運よく手に入ったとしても、売って現金にしたり、病気の家族に食べさせます。
Q:どんな家に住んでいるのですか?
A:他人の家の部屋を一つ借りて住んでいます。二五〇〇〇ウォンを家賃として毎月払っています。
Q:結構高いですね。それを払えない場合はどうなりますか?
A:家を出なければなりません。そうすると行くところが無くなるので、何があっても家賃だけは払わなければなりません。家を追い出された人たちが、コチェビ(ホームレス)になるんです。
(つづく)