ビルマ最北の家(下)

※お断り ミャンマー(ビルマ)入国取材の安全を期して、宇田有三氏は「大場玲次」のペーネ  ームを使用していましたが、民主化の進展に伴い危険がなくなりましたので、APN内の記事の署  名を「宇田有三」に統一します。

タフンダン村に住むチベット人の家族が麦畑の手入れに余念がない。
タフンダン村に住むチベット人の家族が麦畑の手入れに余念がない。

 

カチン州内の「少数派民族」を調べていくと、「カチン」とはビルマ語による他称で、自称ではそのカチンは、さらに細かく分かれている。その最大多数はジンポー族で、その他カヨー・ダラウン・ゴーリー・カク・ドゥイン・マル・ラワン・ラシ・アズィ・リスなどの10を超える「少数派の少数民族」がいる。もっとも、北ビルマでは一般的に、「カチン」といえば、ジンポー民族を指すことが多い。

ちなみに、「少数民族」というと外国メディアは、なんら考えることなく自動的に、「少数民族」は反ビルマ軍政という立場を取ると即断しがちである。だが、実際はそうではない。

タフンダン村の家の入口に貼られたチベット仏教のタルチョ(「地・水・火・風・空」を表わす五色の布)。
タフンダン村の家の入口に貼られたチベット仏教のタルチョ(「地・水・火・風・空」を表わす五色の布)。

 

たとえば、プータオ以北のビルマで、中国国境までの間に分布する優勢な民族はジンポー民族ではなくラワン民族である。吉田敏浩さんの『森の回廊』によると、このラワン民族は、どちらかというと軍政寄りの立場と取っている。それは積極的にビルマ軍政を支持しているというより、反ジンポー民族の立場をとるがためである。

汎ビルマ主義を推し進める今のビルマ族中心の軍事政権に対して、カチン民族の政治団体カチン独立機構(=KIO:Kachin Independent)は1994年まで、長らく武装抵抗を続けてきた。さらにKIOは、ビルマ軍政への抵抗のために、カチン州内の各「少数民族」を団結させて戦時体制を採った。

その過程で、KIOはラワン族に対して、そのラワン民族の 独自性を無視し、政治的闘争の権力闘争優先の押し付け、締め付けの政策を取る。それ故、ラワン民族の人はカチン民族に対して、自然と反目する立場をとるようになった。

チベット人の村であるタフンダンの丘に建つ、ビルマ最北のビルマ式パゴダ(仏塔)。
チベット人の村であるタフンダンの丘に建つ、ビルマ最北のビルマ式パゴダ(仏塔)。

軍を中心とする組織は─それがビルマ軍のような抑圧組織であれ、KIOのような抵抗組織であれ─戦時体制の組織を維持するために、手段を選ばない方法をとるのが常なのだろうか。

ウー・テェットンからある時、タフンダン村以外に、まだ外国人が足を踏み入れたことのない「ティベタン」の村が他に2つあると聞いた。ということは、最北ビルマには、チベット人の村が少なくとも3つあるということだ。それよりも、なぜ、ビルマの最北にチベット人が住んでいるのか、ということである。

よくよく地図を確認してみると、ヒマラヤ連峰の東端は、つまりはチベット自治区の東と南側は、ビルマの最北の地域と接している。そのチベット地域からビルマ地域に、人びとが移り住んできたと想像してもおかしくない。それ故、この地域がチベット地域だと表現すれば、果たしてそれは言い過ぎになるのだろうか。

 

タフンダン村の外れに流れる小川の畔で、乾かした材木を取り入れる(ビルマ人の家屋は竹を使う場合が多い)。
タフンダン村の外れに流れる小川の畔で、乾かした材木を取り入れる(ビルマ人の家屋は竹を使う場合が多い)。

いずれにせよ、カカボラジに初登頂したのは、尾崎さんであれ、アンセーさん(ナンマー・ジャンセン)であれ、軍事政権の意図の望みに叶わずビルマ人ではないということだ。
つづく
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