第2師団にはシーア派、スンニ派、クルド人がいて、それはいまのイラクの国民モザイクと同じだ。だが、宗派どうしの対立は部隊のなかでは起きたりしないという。
「宗派対立は外国の誰かがイラクに持ち込んだものだ」。兵士たちは口々にそう言った。
いまイラクの治安を任されるのは、イラク軍、国家警察、そして一般警察などの治安機関だ。
イラク人の手によるイラクの運営である。
米軍がイラク人を拷問し、アメリカのメディアにでも情報が漏れれば大問題になることもあった。
人びとの批判は当然、アメリカに向けられた。
米軍の現場兵士や上官、わずかばかりといえども誰かが何らかの責任を取らされた。
警察やイラク軍が拘束した容疑者を激しく拷問し、ときには裁判もなく殺害している例がすでに起きている。だが、イラクメディアがこれらの実態を調査したり、自由に報道することは出来ないのが実情だ。
そして、拷問や人権侵害があっても、兵士や軍上層部に責任が及ぶことはない。 イラク軍の兵士たちは、「テロリストは人間じゃないんだ。殺してかまわない」と当然のように言う。 それは私が見てきたアラブ社会が持つ「掟」そのもののようだった。中東という厳しい自然環境では、それはときとして集団を守る有効な社会システムとして働いてきただろうし、同時に悲しみの源泉でもあった。 支配を貫ぬくには、より強い力を握って、上から押さえつける。そうでないと自分がやられてしまう。そんな歴史が、何千年もこの地で繰り返されてきた。「誰かが持ち込んだ宗派対立」にのっかってしまったのは、イラク人であるというのもまたひとつの現実だった。
「フセイン政権の時代と同じ」と表現するイラク人記者もいる。
他方、過激な武装勢力にとっても「神の道に反する者」は、教え悟らせるのではなく、打ち倒してこそ"聖戦"なのだ。
強い者がすべてを支配でき、弱者は従うしかない。
(つづく)
<<前 | 次>>