二〇〇八年三月、松林市で六四歳の在日朝鮮人帰国者の老女が、同じ帰国者の老女を斧で殺害した後、つけていた金の指輪を奪い、衣類を盗み逃亡するという事件が発生した。この事件の原因について、労働党と女性同盟はこう結論付けたそうだ。
「組織生活から離れて暮らしている老人たちの精神が緩んでいる」
この事件を口実にして、老人にも組織生活をさせようと計略したのだろう。
また、おばあさんたちが大人しくせずに、あちこちで国に対する批判をして歩いているのを、やめさせたいというのも理由の一つに違いない。
「昔はこうじゃなかった」
「このごろは道徳もどこにいったのやら、自分のことしか知らないズル賢いやつらばかりだ」
「日帝時代よりずっとひどい暮らしだ」
などと、老人たちが政治的な発言を繰り返しているのが気に食わないのだろう。党と女盟は「老人たちは思想武装が足りないので、組織生活を通じて鍛えなければならない」と批判を加えたいのだ。
松林市内の女性同盟員たちは、この「特別指示」を聞いて鼻で笑いながらこうはき捨てたとか。
「金持ちか幹部かでなければ六〇歳まで生きるのも大変な今の時代に、何が女盟の組織生活だ。まったく女盟の幹部は厚顔無恥も甚だしい」
資料提供 シム・ウィチョン
二〇〇八年一〇月
整理 リ・ジンス
※整理者による補足
一九八〇年代から二〇〇〇年代初頭まで、咸鏡南道金策(キムチェク)市で女性同盟生活を送った脱北者の女性に話を聞いた。彼女によると、女性同盟の指示伝達の集会の雰囲気は、ぎすぎすしたものではないのだが、かといって自由な質疑応答が認められることもない。
女性同盟の会議はほとんど毎日行われていたが、一九九〇年代の社会混乱以降は、あらかじめワイロを渡しておいて欠席する人が随分増えたのだそうだ。専業主婦をしていた女性が働きに出るようになって活動に参加する時間が少なくなり、八〇年代には強かった女性同盟の組織はすっかり弱体化してしまったという。
「苦難の行軍」が終わった二〇〇〇年代の初めの頃、主婦たちは再び女性同盟に参加させられるようになったが、この時にはすでにもう、女性同盟生活は「自由の束縛」としてしか受け止められなくなっていた。ジャンマダンに出て生活の糧を稼いでいた女性たちにとっては、何の報酬もない女性同盟の活動は無駄無益なものとしてしか映らなかったのだという。