故金日成主席は一九六二年、第一次七ヶ年計画を始める際に「この計画が完了すれば、白米と牛のスープを食べ、絹の服を着て、瓦葺きの家に住むことになる」と演説した。
それも今は昔。ほぼ半世紀が過ぎた今の北朝鮮では、ジャンマダンのゴミ捨て場に行けばいつでも、家を失った垢まみれの子供コチェビや家族コチェビが食べ物を探す姿が目に入る。瓦屋根の住宅どころの話ではない。あてもなく街を彷徨うコチェビと、貧乏だが浮浪することのない人を分けるものは何か。それは雨露を安らかにしのげる場所、すなわち居住空間を持っているか否かだ。今回は、最底辺の住居生活であるセッパンサリ=「間借り暮し」について書いてみたい。
〇九年の夏に中国でインタビューした清津(チョンジン)市から来たという二〇代の越境青年は、家を失うという「最後の一線」を越えないために、いかに努力しているかを語ってくれた。彼の「間借り暮し」の空間の広さは三畳ほど。一軒の住宅の中の隅っこを、薄い板で間仕切りしただけの〝部屋〟に、病弱な母と栄養失調で軍隊を除隊した兄の三人で暮らしている。
「家賃を払えなければ家から追い出されます。その時は、置いてある家具は大家のものになります。でも、もし追い出された場合、僕たちには行くとこなんてありません。だから何としてでも、ご飯を食べるお金を切り詰めてでも、それこそ盗みをしてでも、家賃を払わなきゃ......。冬なんかは外にいると死んでしまいますからね」
なんとかして払っているという家賃は毎月三万ウォン(注1)とのことだ。これは、彼が家のそばの海で採ったワカメなどの海産物を農村に持って行って売ったり、ジャンマダンで荷役をしたりしてひと月に稼ぐお金の半分以上を占める金額だ。それでも彼は家賃を最優先に考えている。北朝鮮の人にとっては、たとえ狭くても居住空間を失うことは、寄る辺なきコチェビとなって、再びやり直すことが困難になることを意味するからだ。
同じ時期にインタビューを行った清津市出身の五〇代の女性のケース。商売の過程で詐欺に合い、運転資金として人から借りていたお金を失った。その後、厳しい取立てにあい、家にまで借金取りが乗り込んできたため、結局、最後には家を売って借金の返済の一部に充てることになったという。そんな彼女が「間借り」しているのはアパートに付属している倉庫だ。そこを家族三人で
「なんとか住めるように自分でかまどを作って暮らしていた」という。「間借り」はコチェビに転落寸前の人たちによる、最底辺の住宅確保の手段だといえる。
次のページ:社会主義を標榜する北朝鮮で住む所に困るというのは...