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【休み時間、校庭の庭で遊ぶ子供たち。年の差に関わりなく仲良く遊ぶ姿はイラン社会で育った証拠。(撮影・筆者 10/11/13)】

テヘランつぶやき日記
大村一朗のテヘランつぶやき日記 テヘラン日本語補習校 2010/11/13
首都テヘランには、いくつかの日本人コミュニティーが存在する。日本企業の駐在員とその家族、日本人留学生、そして、イラン人と結婚した日本人女性たち。

私も相方もすでに留学生ではなく、駐在員たちの集う日本人会は敷居が高いため、我が家(主に相方)はもっぱら、イラン人と結婚した日本人女性の集まりに混ぜてもらっている。こうした日本人女性の集まりには、学齢期前の幼児を持つお母さんの集まりもあれば、学齢期の子供を持つお母さんの集まりもある。後者のグループが、子供たちに日本語を学ばせる日本語補習校を立ち上げたのは、昨年2009年の9月のことだった。

外国人が勝手に集まり何かをすることを好まないこの国の政情から、補習校の立ち上げは、場所探しから大変な困難が伴ったという。テヘラン市街に数ある文化センターの一つからようやく快諾を得たのは、幸運に近いものだった。
毎週木曜の午後3時半、母親に連れられて子供たちが元気に通ってくる。小学校低学年から中学生まで、生徒数は20人ほど。クラスは、日本語基礎クラス、低学年クラス、高学年クラスの三つが、年齢ではなく、実力に合わせて編成されている。教師は、教職の資格の有無にかかわらず、有志の母親が努めており、教材は、日本で使われている小学生用の国語の教科書とともに、先生手作りの教材が使われる。

この補習校に子供を通わせる母親たちの思いは様々だ。
いずれは家族揃って日本への移住を考えている母親も少なくないが、多くの母親はイランでの永住を決めている。高学年クラスに子供を通わせる、あるお母さんは、イランでの永住と、イラン社会で子供を育ててゆくことを決めた理由を、ここで夫の仕事が安定し、家族が一緒に過ごせる時間が十分に取れること、そして、初めての異国での生活の中、家族のように親身になって助けてくれ、出産のときには病院にまで付き添ってくれた近所の人たちとの親密な人間関係にあると語ってくれた。それは何物にも代えがたく、日本に戻ってもそうした環境に恵まれる保証はない。それでも、自分の祖国の言葉と文化を学ばせたいと、毎週この補習校に子供を通わせている。

別のお母さんも、イランでの永住を決めながら、子供の将来の選択肢を広げてあげたいと思い、この補習校に子供を通わせる。日本人の片親を持ちながら日本語を知らないことで、あとあと子供に悔しい思いをさせたくない。親として、今だから出来ることをしてやりたいと話してくれた。

そうしたお母さんの多くは、毎年6月、イランで夏休みを迎えた子供たちを日本に里帰りさせ、子供を日本の小学校に一ヶ月だけ通わせ、夏休みも日本の子供たちと過ごさせる。それでも、秋にイランに戻り、イランの小学校に通い、イランで日常を過ごすうちに、子供は日本の小学校で学んだことの多くを忘れてしまう。この補習校に通わせることで、それをかなり補うことが出来るという。
教室からは、先生の声より子供たちの声の方がたくさん聞こえてくる。親の動機はどうあれ、子供たちはこの補習校が大好きだ。
宿題が山のように出るイランの小学校に通いながら、週末にこの補習校に通い、そこでまた宿題が出されるのは、子供たちにとっても大変なことだろう。それでも、日本人の母親を持つという同じ境遇の子供同士が、これだけの規模で集まる機会は他にない。子供たちにとっても、ここは特別な場所なのだ。

2時間の授業を終えると、暮れかけた文化センターの庭に子供たちが一斉に飛び出してくる。迎えが来るまでのわずかな時間、彼らは鬼ごっこをしたりして元気いっぱいに駆け回る。年長の子供たちが、小さな子供たちと一緒になって遊んであげている姿は、やっぱりイランの子なのだと感心してしまう。
80年代から90年代にかけて多くのイラン人が日本にやってきた。それは日本社会にあまり良い記憶を残さなかったかもしれない。しかし、その歴史があったからこそ、日本とイランの架け橋となる希望の光景が今、私の目の前にあると思った。

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