■ 第4回 慣習を破りつづけたウシャ
党名"ウシャ"こと、オンサリ・ガルティ・マガールは、1974年11月にジャンコット村マディチョールで生まれた。
ウシャの母ナウマティは、父プラサド・ガルティ・マガールの4番目の妻である。父は、当時マガール族の社会ではよく見られた"小児結婚"をした。12,3歳のときに、自分よりも10歳近く年上の女性と結婚したのである。
この最初の結婚はうまくいかず、まもなく妻は出ていって別の男性と再婚した。父はその後、2番目の女性と結婚したが。この妻が息子を二人産んだあとに亡くなると、3番目の妻となる女性をめとった。
この妻も7人の子供を産んでこの世を去ると、残った小さな子供たちの面倒をみてもらうために、父はウシャの母親となるナウマティと結婚した。ナウマティも6人の子供を生んだのだが、3人の息子全員を子供のときに亡くし、3人の娘だけが生き残った。
ウシャはそのうち2人目の娘である。つまり、プラサドの子供17人(今も生きているのは7人のみ)のなかで、ウシャは下から2番目ということになる。
かつてネパールの国教だったヒンドゥー教を信ずる大半の人たちは、親が決めた同じカーストに属する人と結婚をするのが通常である。しかし、マオイストが人民戦争を始める1990年代半ばまで、マディチョールでは少年少女が自分の意思で"自由結婚"をする習慣があった。
毎週のように、ムキヤ(村の長)の家などに若い男女が集まって、夜通し歌って踊る。女たちは自分の村から外に出ることはなかったが、男たちは他の村からも来ることもあった。
こうした場で、好意を抱いた異性と駆け落ちをして結婚するのである。親公認の、そしてコミュニティー公認の合同お見合いの場と言っていい。ウシャの姉たちも、子供のころからこうした場に参加して、10代半ばで結婚している。
しかし、ウシャは子供のころから、マディチョールの他の女子とは違った経験をした。6歳のときに村の小学校に入学したのである。
当時、ロルパでも娘を学校にやる親はまだ少なかった。1年生に入ったとき、同じクラスに数人の女生徒がいたが、2年生への進学試験に通ったのはウシャだけだった。
5年生まで毎年、ウシャはクラスで進学試験に受かったただ一人の女生徒だった。他の女生徒は皆、結婚したり、家事を手伝うために中途で辞めていった。
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