■ 第10回 党分裂から武装闘争へ(2)
1990年の民主化から2年ほどたったころのことだった。ロルパの郡庁所在地リバンの北に接するダバン村で、エカタ・ケンドラの女性活動家を対象とした政治トレーニングが開かれた。
ウシャやジャヤプリ、タラのほかに、後に警察に拘束されて殺害されたタバン村のラリ・ロカ・マガール(後の章で登場する)ら15人ほどの女性が集まった。
会合には、エカタ・ケンドラの党リーダーである"バーダル"こと、ラム・バハドゥル・タパ・マガールと、党中央から来た40人ほどのリーダーが参加していた。ウシャやジャヤプリらと同じマガール族に属するバーダルは、ロルパを含むラプティ県の党組織をとりまとめる政治局メンバーだった。
ウシャらが話すロルパの女性たちの問題に耳を傾けたあと、中央から来たリーダーが話した。
「抑圧された女性を解放するには、武装闘争を始めるしかない」
このリーダーがエカタ・ケンドラの党首プラチャンダ自身であることを、ウシャたちは後になって知ったのだった。
エカタ・ケンドラを結成してから1年たった1991年11月、同党とその"表の政党"である統一人民戦線ネパールの党内では、政治的・社会的な変革をもたらすために、武装闘争、つまり人民戦争を始めるべきであると主張するプラチャンダ派と、「まだ人民戦争を始める時期ではない」と主張するニルマル・ラマの一派に分かれて思想闘争が始まっていた。
3年後の1994年11月、両党内の対立は決定的となり、それぞれ二つのグループに分裂した。エカタ・ケンドラは人民戦争の開始を主張するプラチャンダ派と反対派のニルマル・ラマ派に、統一人民戦線ネパールは賛成派のバブラム・バッタライと反対派の二ランジャン・ゴビンダ・バイデャに分かれた。
ロルパではエカタ・ケンドラの党員の大半がプラチャンダ派についた。
そして、1995年2月に開かれた総会で、プラチャンダが率いるエカタ・ケンドラとバブラム・バッタライが率いる統一人民戦線ネパールは、ネパール共産党毛沢東主義派を結成し、人民戦争を始めることを正式に決定するのである。
この政党はつまり、人民戦争を始めるためにできた政党と言っていい。そして、この政党に属する人たちがその後「マオイスト」と呼ばれるようになるのである。
(つづく)
【連載】 ネパール マオイスト・女性ゲリラたちの肖像
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