■ 第19回 "革命"の名をもつ女性マオイスト
ウシャたち、ロルパ郡の戦闘隊がホレリ警察詰め所を襲撃したのと同じ日の同じ時刻に、ルクム郡の戦闘隊のメンバー38人は郡西部にあるアトビスコット村の警察詰め所を襲った。
このチームのなかに3人の女性がいた。"クランティ"ことカマル・ロカ・マガールとナラヤニ・シャルマ、ラル・クマリ・ロカ・マガールである。東ルクムのプワン村に生まれたクランティはこのとき19歳、高校の最終学年である10年生の生徒だった。
"革命(クランティ)"という党名をもつ彼女は、親に逆らって自分の意思を通したという意味で、この党名にふさわしい子供時代を送った。
クランティが11歳のときだった。彼女を息子の嫁にしたいと、その少年の親たちがクランティの家に来た。少年の親は嫁を乞いに行くときの慣習に従って、自家製の酒(ロキシー)とロティ(小麦粉を水でといて焼いたパン)に1000ルピーの現金を添えてクランティの親に渡した。
村では裕福な家である彼らからの申し出を断る理由もなく、彼女の親はこの申し入れを受けた。その夜、彼女の家では話がまとまったことを祝う宴会が始まったが、怒ったクランティは泣きながら自室にこもってしまった。
「息子は学校に、娘は嫁に」というのが、当時の大半の村人の考えだった。クランティも学校に行かせてもらえず、家畜の放牧や家事を手伝う毎日だった。このまま他人の家へ嫁ぐことがどうしてもいやだったクランティは、「無理やり結婚をさせられたら自殺をする」といい続け、親は彼女に折れる形で婚約を解消したのである。
14歳になったとき、クランティはついに学校に行く夢を果たした。すでに読み書きは自習してできたために、5年生に編入した。クラスのなかでは他の生徒に比べてだいぶ歳が上だったが、毎日学校に通うことができる嬉しさがすぐに恥ずかしさを吹き飛ばした。
学校に行きはじめて3日目のことだった。親に隠れて買ったシャツとスカートの制服を着て学校から戻ると、棒を持った母親が待っていた。母は泣きながら「なぜ勉強をする必要があるのか」とクランティを叱り、腕がはれ上がるまで棒で娘を殴った。教科書も破られ、耳につけていた金のピアスも取り上げられた。
この後、クランティは伯母の家に逃げ、次の日から教師の家に住み込んで学校に通うようになった。翌年、娘が学校に行くことに反対していた母親が亡くなると、彼女はますます勉強に精を出すようになった。
6年生に進学すると、エカタ・ケンドラの傘下にある学生組織のメンバーになった。そして、7年生のときに、クランティは同じ学生組織のリーダーである"ラシュミ"ことガネシュ・マン・プンと恋に落ちたのである。16歳だった。このときラシュミは党のルクム郡委員会のメンバーとして、10を超える村の党活動を統括する役目を与えられていた。
1995年のカティク月(10月半ばから11月半ば)にパチャバン村で政治トレーニングが開かれたあと、ルクム郡でもラシュミが中心となり、3つの戦闘隊が結成された。当時、10年生だったクランティもそのメンバーとなった。
ゴルカ郡で武器の訓練を受けてきたアナンタが、ロルパ郡に接するマハト村の山の峰で銃の扱い方や爆弾の作り方を教示した。このトレーニングにはラシュミだけでなく、クランティや他の2人の女性も参加した。銃がないために、木でライフルの形を作り、それをもって撃ち方を習った。
(つづく)
【連載】 ネパール マオイスト・女性ゲリラたちの肖像
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