◆ 第20回 ルクムでの初日の襲撃(1)
自分の村にいたクランティにラシュミから「ピパル村に行き、党本部と接触せよ」という知らせが入ったのは1996年2月第1週のことだった。連絡を受けてから5日後にはクランティはピパルに行っていた。そこには、ルクムだけでなく、隣のジャジャルコット郡や遠いドルパ郡からの数人を含む15人ほどが集まっていた。
彼らは炒ったトウモロコシなどの食事を取り、暗くなってから西に向かって出発した。ルクム郡を東西に横切るサノベリ川に沿って歩いた。暗闇で懐中電灯をつけるわけにもいかず、それぞれのリュックサックに白い紙をはり、1列になって前を歩く人の白紙を目印にして歩いた。襲撃を指揮するラシュミが前を歩いていた。
数時間ほど川沿いを歩いたあと、道を北に折れてドゥリのほうに山を登りはじめた。峠に出ると、そこには雪が積もっていた。
裸足でサンダルをはいたクランティが何度も滑りそうになると、ラシュミは彼がはいていた靴と交換してくれた。雪の中を歩いているうちに道に迷い、明るくなってから、ようやくドゥリ村に着いた。
この村にある農家で待っていたのは、元教師の"スダルシャン"ことヘマンタ・プラカシュ・オリだった。オリはパンチャーヤト時代からの党の活動家である。
そこにはルクムのほかの地域からも戦闘隊のメンバーが集まった。スダルシャンは集まった35人を超えるマオイストに、これから彼らが「歴史的な新しい仕事」を行うことになると告げた。ラシュミが警察詰め所周辺の地図を描いて、襲撃計画を伝えたが、この時点では、襲撃する警察詰め所がどこにあるかは知らされなかった。
ドィリ村のシェルターには自家製ライフルのバルワ・バンドゥクとネパール刀のククリが集められていた。これらの武器を持って、ラシュミとスダルシャンが率いる38人の部隊は、翌日の夜、さらに西に向かって出発した。
クランティが襲撃する警察詰め所はルクムの西のはずれ、ジャジャルコット村との境界にあるアトビスコット村にあると知ったのは最後のシェルターを出発した翌日、つまり、襲撃当日の2月13日のことだった。この日も彼らは日中をシェルターで過ごし、夜になってから出発した。
目的地に行くには、ドルパへ通じる道を行かねばならなかった。ヒマラヤ山岳地帯にあるドルパと平地のタライをつなぐ通商道であるために、人や荷物を運ぶロバがよく通る。その夜も、何十頭ものロバを連れた人が懐中電灯を灯して、マオイストの部隊を照らしだした。
襲撃の情報がもれるかと心配されたが、相手もまさか彼らが警察詰め所を襲撃に行くものとは思いもしなかったのだろう、大事には至らなかった。
(つづく)
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