◆ 第22回 マオイストの"首都"、タバン村へ (1)
私が初めてタバン村を訪れたのは2003年3月8日のことである。当時、"マオイストの首都"として知られていたタバン行きを勧めてくれたのは、タバン村があるロルパ郡出身のマオイスト・リーダー、クリシュナ・バハドゥル・マハラだった。
マハラは、この連載のなかでも触れたが、ロルパ出身のリーダーの大半を教えた元高校教師である。マハラと最初に会ったのは、マオイストがネパール政府とのあいだで最初の停戦に応じた2001年のことだった。この年の9月、マハラはマオイスト側の和平交渉団を率いて、首都カトマンズに滞在していた。私は、政府側とマオイスト側の仲介役を果たしていたある政治家の家でマハラに会った。
その後、同年11月に和平交渉が決裂し、マオイストが再び武装闘争を始めたあと、私のタバン行きをアレンジすることになっていた詩人でジャーナリストのクリシュナ・センが、警察に捕まり拷問を受けて死亡した。
国家非常事態宣言が発令されて半年たった2002年5月、私は初めてロルパを訪ねたが、タバン村に行くことはできなかった。再び機会が訪れたのは、2003年1月末にマオイストと政府のあいだで2度目の停戦が宣言されたあとである。
突然の停戦宣言からまもなく、ある偶然から私はカトマンズでマハラと再会した。ネパールのメディアも、マハラが密かに首都に来ていることは知らなかった。この幸運ともいえるマハラとの再会が、私とロルパとの関係が深まるきっかけとなったのである。マハラは私のタバン行きが実現しなかったことを覚えており、すぐに手配をしてくれた。
ロルパ出身のマオイスト2人、そしてマオイスト系ジャーナリスト1人とカトマンズを発ったのは2003年2月26日のことだった。カトマンズのバス・ターミナルから夜行バスに乗るさい、「こちらが指示をするまで、互いに知らない人のように振舞うように」と指示を受けた。
停戦中とはいえ、これからマオイストの本拠地であるロルパに向かうのである。途中、ハイウェーのあちこちにある国軍の検問を通過しなければならない。彼らが注意深くなることは当然のことだった。ましてや、同行するマオイスト系ジャーナリストは、非常事態宣言が発令されたあとに逮捕され、少し前に釈放されたばかりだった。
私たちが乗ったバスはロルパ行きではなく、その西にあるサリヤン行きだった。「口をきくな」と指示されたため、なぜサリヤン行きのバスに乗るのか聞くこともままならなかった。この旅は、出だしからアドベンチャーに満ちたものになった。
タバン村まで何日かかるのか、いつカトマンズに戻ってこれるのか、見当もつかなかった。どこで降りるかも知らずに20時間以上バスに揺られたあと、私よりもずっと後ろの席に座っていたマオイストの一人が、「ここで降りる」と目で合図をした。
(つづく)
【連載】 ネパール マオイスト・女性ゲリラたちの肖像
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