◆ 第26回 "赤の村" タバン(2)
どうにかタバン村にたどり着いたものの、無理がたたって、私は高熱におそわれた。着いた日の夜から、マオイストがアレンジしてくれた民家の部屋のベッドから起き上がることができなくなってしまった。100メートルほど離れた共同トイレに行くのさえ容易でなく、解熱剤を飲んで、板張りのむき出しのベッドに寝袋を敷いただけの寝床にただ横になっていた。
標高2000メートルを超える高地にあるタバン村には、雪に覆われたジャルジャラ山から冷たい風が吹き付けていた。ルクムコット村から来たガイドは翌日帰ってしまい、私は初めての土地に知る人もおらず、1人きりで寝込んでいた。
滞在していた家の主人である学校の教師が、出勤する前と帰ってきた後にお湯を沸かしてもってきてくれた。食欲は皆無で、店で買ったビスケットとお湯だけをとって過ごした。
一日中部屋の中にいても、この集落に大勢のマオイストが滞在していることがわかる。2階にある部屋の窓から前の路地を見ると、ロケット砲を肩にかついだり、M-16ライフルを抱えたツァパマール(ゲリラ)が堂々と道を歩いていた。迷彩服を着て、大きなリュックサックを背負った人たちがグループで歩いていくのを何度か見た。
あとで聞いたことだが、当時、タバンには人民解放軍の中隊本部があった。武装ゲリラだけでなく、医療部隊や文化部隊もいた。しかし、そんなことをマオイストや村人が教えてくれるわけもなく、私はこれまで訪ねたどの村でも見たことのない光景に、病気の身でありながらも興奮したことを思い出す。
トイレに行く以外は寝て過ごしたにもかかわらず、私の体調は日に日に悪化していった。喉の痛みと高熱は一向に良くならず、相変わらず食欲がなかった。私が何も食べないのを気遣って、家主の教師が最上階の3階にある台所に私を呼んで、炉の灰のなかで畑でとれた小粒のジャガイモを焼いてくれた。
タバンの人たちは、たいていが自宅から離れたところに畑をもち、そこに建てた"ゴト"と呼ばれる小屋に住んで畑仕事をする。教師の妻と娘もゴトに行っており、家には彼と小さな息子しかいなかった。
彼の家の2階には、私が借りている部屋のほかに、階段をはさんでもう1つ部屋があった。そこにはマオイストの中央委員メンバーが泊まっていたようだが、誰なのかは最後まで教えてくれなかった。家主の教師は、マオイストの党員でもなければシンパでもないことが、話していてわかった。
この村にはマオイストと共生できずに、村を出て行った人が大勢いたが、村の外からきたマオイストたちは、空き家となったそうした人たちの家や、一般の民家の部屋に当然のように滞在していた。
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