◆ 第27回 タバンはいかに"赤の村"となったのか(1)
タバン村に来て4日目。相変わらず熱は下がらず、共同トイレに行く以外は部屋で寝てすごした。正午を過ぎると、冷たい風が吹きだした。タバン村の北にある標高3000メートルを超えるジャルジャラ山から吹き降りてくる風である。雹(ひょう)も混じっている。
マオイストが訪ねてくることもなく、1人で堅いベッドに横になっていると、さまざまな思いが心をよぎった。
2年間思いつづけたタバン村をようやく訪れたものの、人生最悪の高熱をだし、何もできずに寝ているしかないとは、何とも情けない思いもした。しかし、タバン村に「2度と来たくはない」とは、なぜか思わなかった。それどころか、次はいつこようかと、そればかりを考えていた。それほど、この村は私に強い衝撃を与えたのである。
村に着いた直後に会ったタバン村人民政府のチーフであるプラタプに、私はタバンの歴史を知る人に会いたい旨を伝えていた。2日目の夕方、プラタプは1人の老人を連れて、部屋にやってきた。68歳になるカマン・ジャンクリだった。
ジャンクリは1969年にネパール共産党の党員になった、タバン村で最も古いコミュニストの1人である。彼はこの秘境ともいっていい山奥にある村が、いかにしてコミュニストの村となったのかを語ってくれた。
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