タバン村トゥーロガウンでくつろぐ村人たち。(2003年3月 撮影 小倉清子)
タバン村トゥーロガウンでくつろぐ村人たち。(2003年3月 撮影 小倉清子)

 

nepal_maoist_B0200_001◆ 第28回 タバンはいかに"赤の村"となったのか(2)
タバン村を"コミュニストの村"として全国に知らしめた出来事が起こったのは1981年のことだった。
その2年前の1979年、パンチャーヤト制度に反対する大規模な学生運動が起こった。当時の国王ビレンドラはパンチャーヤト制度を継続するか、複数政党制度を復活させるかについて国民投票を行うことを宣言した。

この国民投票で、タバン村の大半の村人は複数政党制度復活を支持する票を投じた。モハン・ビクラム・シンが率いる党の決定にしたがって、タバン村の人たちはその翌年開かれたパンチャーヤト議会の選挙をボイコットした。

これをパンチャーヤト制度に反対する行為と理解した政府は、タバン村で警官と軍を動員して村人の弾圧に乗り出したのである。
このオペレーションが実施されたビクラム暦の月の名前がつけられて"カティク・オペレーション(カティク作戦)"と呼ばれるこの掃討作戦のことは、今でもタバン村の人たちの語り草となっている。

当時、共産党員となっていた人やそのシンパと見られていた人たちは村を離れて、何ヶ月も近くの山や村に隠れて過ごした。現在、マオイストのナンバー2の地位を占めるリーダーである"キラン"ことモハン・バイデャは、警官と軍の部隊がタバンに来たとき、たまたま最大集落でるトゥーロガウンの民家にいた。このとき、村人が彼をいかに官憲の目に触れないようにして逃がしたかを複数の村人に聞いたことがある。
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