◇朝中共同開発着工式当日は外出禁止...市民には不満も
今月9日、中国吉林省の元汀里と北朝鮮の羅津(ラジン)港を結ぶ道路補修工事の着工式が羅先(ラソン)市内で行われた。前日8日に西側の鴨緑江河口に位置する北朝鮮領の中州である黄金坪で行われた「黄金坪経済地帯(特区)」着工式の取材を、中国が外国メディアにも許したこととは対照的に、この日の着工式には中国メディア以外の参加は許されなかった。
このため、当時の着工式の詳細についてはもちろん、羅津市の様子もベールに包まれている。アジアプレスでは20日、9日当時、羅津市内に滞在していたという中国人投資家、柳健植(仮名、50代男性)氏と接触、当時の羅津市の様子を振り返ってもらった。なお、柳氏は着工式そのものには参加していないことを付け加えておく。以下は柳氏の談話をまとめたものである。
「着工式には中国側から400人あまりの参席者があったと、羅津市の中堅幹部から直接聞いた。当日の朝、中国から渡ってきたとのことだった。当初は280人だった予定者が増え、北朝鮮側では準備に苦労したそうだ。着工式の日は朝8時半から外出が許されなかった。
仕方なくホテルの窓から外を眺めていたのだが、道行く人がいれば交通警察が容赦なく笛を吹き、室内へ戻るよう怒鳴り声を上げ命令していた。10時ころになって、中小型車、トラックなど総勢60台あまりが着工式の会場となった羅津港に向かう様子を目にした。通り過ぎる車を、北朝鮮の軍人たちが敬礼で見送っていた」
9日の着工式は、北朝鮮の羅先特別市が、経済特区として再生するための再スタートとなるイベントだった。北朝鮮東北部の良港、羅津港を含む羅先市は、1991年に<羅津・先峰(ソンボン)自由経済貿易地帯>として、北朝鮮では最初の経済特区に指定されて対外開放された歴史がある。
特に故金日成主席が生前、意欲的に推し進めた関係から、積極的な法整備が行われた。外国人の入国が許可され、日本からも積極的に投資を誘致しようとする力の入れようであった。
しかし金日成主席の死亡に続き、「苦難の行軍」と呼ばれる社会混乱が発生して国内政治が不安定化した後、核・ミサイル問題によって国際環境が悪化した上、金正日総書記が外部情報の流入を憂慮して同地帯の開放に消極的になったことなどが重なり、2000年ころには経済特区としての勢いは完全に失われていった。
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