1 老朽化した設備と電力不足
まず坑木。穴を地下深くに掘り進めていくためには、坑道が崩れないように支柱を立てて天井や壁を支えなければならない。以前はソ連から輸入したシベリアの木材で坑木を作ったり、鉄筋が入ったセメントで作った支柱を使っていたが、どこの炭鉱でも八〇年代初めにソ連から坑木用の材木が入らなくなった。
「国産の坑木はスカスカで弱い。さらに最近は、国内産の曲がった木を使っている。落盤事故が多い」
とキム記者は言う。坑木が不足しては炭坑が掘れないことは言うまでもない。
次に機械類だが、かつてどこの炭鉱にも設置されていたベルトコンベアーは、九〇年以降は少なくとも順川地区では使われていないはずだと、キム記者は断言する。以前使われていたものの多くはソ連製だったが、ベアリングやベルトの質が悪く故障が多かった。
掘った石炭をどうやって運んでくるのかというと、坑夫たちは背負った籠に入れて、坑道内の停車場という所に停められている「炭車」(トロッコ)まで担いで行くのだそうだ。
リ・サンボン氏が働いていた游仙炭鉱では、ソ連製ベルトコンベアーが全く動かなくなったのは七三年頃。役に立たないため取り外してしまった。その後は、鉄板を床に敷いて石炭を掃くようにして炭車の所まで人力で押し上げていたという。
炭鉱の中は石炭ガスが充満しやすく、また坑内の労働者に新鮮な空気を地上から送り込むため、空気圧縮機(エアーコンプレッサー)が必要だ。また掘削する時に出る地下水をポンプで排水することも必須だ。しかし、これらの機械はどれも老朽化が著しい。キム記者は
「順川地区炭鉱で使っている空気圧縮機やポンプはだいたい八〇年代に中国から入ってきたもの。中には六〇、七〇年代の代物もあって、いまだに何度も修理して使っている」
と述べる。
リ・サンボン氏によれば、游仙炭鉱にいたっては、ポンプは植民地時代の日本製の機械を七五年ぐらいまで使っていたという。
このような老朽化に加えて深刻だったのが、九〇年代の「苦難の行軍期」以来頻発した機械設備の破壊と盗難だった。食糧難が深刻化して餓死者まで出始めるようになると、機械設備を解体してクズ鉄として売り飛ばすということが全国の工場で発生した。それは個人がくすねるという程度にとどまらず、職場で組織的に行われることも多かった。食糧を買うためである。
「炭鉱もひどかった。機械はもちろん、『炭車』、それを引くワイヤーロープ、電線まで盗まれた。游仙炭鉱はすでに九二年にはまったく稼働しなくなっていたが、その後の『苦難の行軍』期の破壊で復旧は不可能になった」
とリ・サンボン氏は言う。
さらに電力不足による影響も深刻だ。前述したとおり、炭鉱では常に坑内に新鮮な空気を送り込み、地下水を絶えず汲み出す必要がある。動力は電気だ。多くの炭鉱でポンプを動かせくなって坑道が浸水して生産が止まったが、直接的な原因は電力難のためだった。石炭を積んで地上に運ぶ「炭車」、そして人を運ぶ「人車」は、ワイヤーで地上に繋がっており、巻き揚げ機で引っ張る。これも電気がなければ動かせない。
人力に頼らざるを得なくなった炭鉱は、当然稼働率が大幅に低下した。
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