二〇〇九年の突然の「貨幣交換」(デノミ)措置によって社会が大混乱に陥ったことを、リムジンガンでは大きく取り上げて来た。新ウォンに切り替えるにあたって、一世帯あたり旧ウォン一〇万ウォン(当時約二五〇〇円)までという交換上限が設けられ、非常に多くの人たちが、こつこつ貯めたお金を一瞬にして無効にさせられた。このため、政権に対する怨嗟の声は国中に轟くことになったのであった。
一方で、北朝鮮の住民の中には当初、この「貨幣交換」に一縷の希望を見出した人たちも少なくなかったようだ。証言を聞いてみよう。
「『貨幣交換』をしてからの一ヶ月は、ついに、本当に共産主義が来たのだと嬉しくなりました。国は『工業品が溢れるように流通するだろう』と宣伝するし、五〇〇ウォンの配慮金が配られたし......。私たちのような本当に貧乏だった人間には、手持ちのお金は増えるのに、物価は下がるのを実感した幸せな一ヶ月でした」。
羅先(ラソン)特別市で母一人子一人で苦労しながら生きてきたという四〇代の脱北女性の言葉だ。
また咸鏡北道セッピョル郡から一家五人で豆満江を越えて中国へ出国して来たという四〇代の男性は、二〇一〇年八月、編集部に次のように語った。
「商売をうまくやって儲けていた連中の金が紙くずになって『ざまあみろ』と言う人間が結構いましたよ。何にも持っていないその日暮らしの貧乏人たちです。当事ジャンマダンの物価も一〇〇分の一に下がっていましたし、五〇〇ウォンももらえたので『共産主義が来た、強盛大国が見えた』と喜んでいましたよ。その時はね」。
ところがである。皆が豊かな生活を送れる「共産主義社会」の世が到来したと感じたのもつかの間、希望はすぐに失望に変わってしまった。
「その後、怖いくらいの速さで物価が上がり始めました。それでも政府は『手持ちのお金を使わず持っているように。もうすぐ物資が円滑に供給されるようになるので、それから使いなさい』と繰り返します。
それで物価がどんどん上がるのを横目に、必要なものも買わずに我慢していました。とうとう、一〇万ウォンを交換して得た新しい一〇〇〇ウォンではコメ一キロすら買えなくなって......、三月にはほとんど紙くずになってしまいました」
前述の脱北女性の言葉だ。セッピョル郡から来た男性も言う。
「まさか『苦難の行軍』期よりも大変なことになるなんて......。コチェビ(浮浪者)は増え、現金を作ろうと家を売って故郷を離れる人もたくさんいました。栄養失調で死んでいく人もいます。共産主義は来たと思ったら、すぐに行ってしまったんですよ」。
取材 パク・ミヨン(中国)
整理 リ・ジンス
二〇一〇年冬