◆ 「誉れの一家」
戦後、儀間さん姉妹を育ててくれた祖父母は、この沖縄戦で8人の子どものうち、次女と六男を亡くしている。戦時中、儀間さんの父親である長男をはじめ、6人の息子たちを戦場に送り、「誉れ輝く軍国の家、手柄競ふ兄弟」という見出しとともに「誉れの一家」として新聞にも紹介されたことがある。
儀間さんの父親は満州で終戦を迎えながら、抑留されたシベリアで死亡。戦死公報が届いたのは儀間さんが小学6年生のときだった。
「みんな同じように子どもを亡くしているのだから」と慰められた祖母は、そこにあった布団を頭からかぶり、「自分はあきらめ切れない」と言って狂ったように部屋の中をぐるぐる回ったという。祖母が85歳で亡くなったとき、祖父から聞いた話だ。
孫の前では取り乱した様子など見せなかった祖母だっただけに、「私も3人の子どもの母親になり、そのときの祖母の気持ちがわかります」
祖父母が戦争について語ろうとしなかったこともあり、儀間さんも封印してきた。だが、10年前のこと。「10・10空襲を風化させない市民の会」が空襲体験の手記を募集している新聞記事を読んだ儀間さんは、「空襲があった1日なら書ける」と初めて体験を綴り、市民の会代表の霜鳥美也子さんに送った。
「辺野古の海、嘉手納基地を見ると、また戦争になりそうで怖い。風化させてはいけない。語り継がねばならない。それが戦争体験者の役割だと思うようになったのです」
この日、儀間さんは父親の形見を持参していた。出征する父へ、当時の県知事が贈った日の丸で、「武運長久」と書かれている。
「父や祖父母の無念さを思うと、二度と繰り返さないようにしなければ」と儀間さんは自身に言い聞かせるように呟いた。
【矢野宏(新聞うずみ火)】
「新聞うずみ火」:http://uzumibi.com/