66年前の夏、岩手県釜石市は2度の艦砲射撃を受け、市街地は灰燼に帰した。
死者は1000人以上とされる。再生を遂げたまちを、こんどは大津波が襲った。震災から初めて迎える夏。戦災と津波をかいくぐった人たちを訪ね歩いた。
栗原佳子(新聞うずみ火)
リンク:「東日本大震災ルポ 岩手・釜石~終戦直前 艦砲射撃の記憶と震災被害(上)」
<もう一度「戦災資料館」を>
◆ 体験集めに苦労
戦後、千田さんは労働組合に参加、社会に対する目を開かされていく。同僚たちと詩人集団「花貌(かぼう)」を結成、同人の男性と結ばれた。長男が誕生し、千田さんは退職。まもなくレッドパージの嵐が吹き荒れ、夫は53人の解雇者の1人にされた。
内職で家計を支えながら「花貌」の活動を続けた。71年からは艦砲の体験を集めた分冊を出版。2004年の終刊まで73号を重ねた。
当初は体験を集めるのも一苦労だった。「思い出したくないというのもありますが、製鉄所があったから攻撃を受けた、ということへの遠慮です。企業城下町ですから...」。
その後も一貫して平和運動に関わってきた。「戦災資料館」もその一つ。
傷痍軍人会や遺族会など、思想信条を超えた10団体で実現を呼びかけ、昨年8月9日、8年越しの運動を実らせた。しかし津波は建物を破壊し、貴重な展示物や資料を押し流した。ともに力を合わせた仲間までも。
傷痍軍人会支部長は資料館近くで遺体で見つかった。遺族会会長で艦砲射撃研究の第一人者と妻、艦砲犠牲者の名簿づくりに尽力してきた男性も亡くなった。
◆ 再建へ動き出す
10団体の代表を務めるのは市平和委員会の前川慧一さん(73)だ。同市鵜住居の自宅は津波にのまれた。平和委員会では一昨年から市民の戦争体験集を発行。今年8月15日に第3集の発行を予定していたが、編集中の貴重な手記も失った。
7月下旬、同市甲子町の仮設住宅に入居。手記を寄せてくれた人たちを訪ね歩き「もう一度書いてほしい」と頭を下げている。
津波の犠牲となった人もいた。体験を語り継ぐことはかなわない。しかも戦争が終わって66年が過ぎた。「来年8月15日には第3集を出したい」。前川さんは焦りをにじませる。
長く平和運動に携わってきた前川さんには、原点ともいえる強烈な体験がある。
朝鮮半島から引き揚げる途中の上野駅でのこと。戦災孤児の少女が、前川さんの両親に『連れていって』と必死の表情で取りすがったのだ。自身も、幼い弟を背負い、「一緒に連れていこう」と泣いて懇願した。
「いまも、あの少女はどうしているだろうと、時々思い出します」。その上野や、原爆を投下された広島で見た焼け跡はいまの釜石と重なる。
人の尊厳までが再び危うい。前川さんは避難所で生活再建に向けた被災者のネットワークを結成、市への要請を続けている。津波の聞き取りも重ねており、来年3月11日には体験集にまとめたいという。
8月8日、戦災資料館の再建を求める初の対市要請を10団体で行った。そこには最年長の千田さんの姿もあった。
「時間をかけて、充実させたものにしてほしい」と願う。
震災のショックで体調を崩した千田さんだが、少しずつ元気を取り戻しつつある。66年前とは違う、人が人を助ける態勢。思い。「その力で戦争を食い止めることにつなげていけるのではないかと思ったの」。
そう言って、千田さんは穏やかに微笑んだ。
(終わり)
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