<空襲はなぜ国の責任か・差別なき戦後補償を求める>
太平洋戦争末期、1万5000人が亡くなったとされる大阪大空襲の被災者と遺族ら23人が国に謝罪と賠償を求めた「大阪空襲訴訟」の判決が12月7日、大阪地裁で言い渡される。
国は、戦後、旧軍人・軍属とその遺族には毎年1兆円もの恩給や年金を支給しているが、民間の空襲被害者については「戦争という国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民は等しく耐えねばならない」という「戦争損害受忍論」を押しつけ、何の補償もしていない。
原告たちは
「戦争損害受忍論を空襲被害者だけに押しつけるのは、法の下の平等をうたった憲法14条に違反している」
「戦争終結を遅らせたことで甚大な空襲被害を招き、その後も被害者を救済せず放置した『不作為の責任』がある」
と主張し、2008年12月8日に集団提訴した。
その日は、日本が無謀な太平洋戦争に突入して68年目の開戦の日だった。
原告の平均年齢は78歳。2010年3月に原告団の精神的な支柱だった小見山重吉さん(享年79)が亡くなっている。寝たきり状態になってからも、「このままでは死んでも死に切れん。政府に謝罪してもらうまではあきらめへん」と妻に漏らしていたという。
◆ 苦難の道
なぜ、戦後60年以上もたって裁判なのか。
原告団代表世話人の安野輝子さん(73)はこう説明する。
「私たちは40年近く前から民間の空襲被害者を補償する『戦時災害援護法』の制定を求めて運動してきました。法案は国会で次々と廃案になり、1989年以降は出されていません。2007年には街頭に立って署名を集め、国に提出しましたが、『戦後処理の問題はすでに解決済み』と受け付けてくれませんでした。もう署名集めとか、陳情では声は届かない。かといって、黙っていては何事もなかったかのように終わってしまう。もう裁判するしかなかったのです」
さらに、安野さんは「裁判を通じて、国に戦争損害受忍論を撤回させ、すべての民間の戦災被害者に補償する国に変えさせるきっかけを作っていきたい。それが子や孫に戦争をしない平和な国を残すことにつながると思うのです」という。
口頭弁論は2009年3月4日に始まった。原告たちは大阪地裁の大法廷で自らの空襲体験や、その後の苦難について意見陳述してきた。
原告たちに共通するのは、空襲によって受けた身体や心の傷は戦後60年以上たった今も癒えることがないということ。
とりわけ、空襲で傷害を負った人たちは満足な治療も受けられず、戦争が終わってからも学校や職場、地域などでいじめられ、偏見にさらされ、働く機会を奪われるなど、苦難の道を歩んできた。
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