大阪市東住吉区の藤原まり子さんは原告団で最も若い66歳。1945年3月13日、阿倍野区の自宅で生まれた2時間後に第1次大阪大空襲に遭った。
2009年6月3日に開かれた第2回口頭弁論で、藤原さんは「私には、空襲の記憶は直接にはありません。でも、私の身に降りかかった戦争の苦しみは、一日も忘れたことはありません」と、陳述を始めた。
母に抱かれて逃げ込んだ防空壕に焼夷弾が直撃。産着に燃え移った炎で、藤原さんの左足は焼けただれ、膝の関節から下が内側に向かってぐにゃと曲がった。
近くの焼け残った病院で診てもらったが、充分な薬もなく、やけどした左足に赤チンを塗るだけ。そのとき、左足の指は5本ともポロポロと落ちたという。
藤原さんが「みんなとは違う」と気づいたのは6歳ごろ。夜遅く銭湯へ行ったとき、小さな男の子から指を差され、「あの子の足、変な形して気持ち悪い」と言われた。
その子の母親は叱るでもなく、「悪いことをしたら、あんなんになるんやで」。藤原さんは「私は何も悪いことしてへん。悪いのは戦争や」と心の中で叫んだという。
中学2年の時、大腿部から下を切断。以来、義足をつけているが、今でも皮膚とすれて痛みが襲う。
「あの空襲のときに死んでいたら、こんな悲しい思いや、いろんなことで悩むこともなかったのに、と何度、思ったことでしょう。戦争さえなかったら自分の足で走れたのに、階段もスタスタと昇り降りできたのに、すてきな洋服を着て、ハイヒールやサンダルも履けたのに...。私は、生まれて一度も自分の足で歩いたことがありません。自分の足で歩きたいです」
そう言って、藤原さんは目頭をぬぐった。
(つづく)
次へ>>
<【矢野宏:新聞うずみ火】
「新聞うずみ火」:http://uzumibi.com/