<空襲はなぜ国の責任か・差別なき戦後補償を求める>

大阪大空襲の体験画(提供・大阪大空襲の体験を語る会)
大阪大空襲の体験画(提供・大阪大空襲の体験を語る会)

太平洋戦争末期、1万5000人が亡くなったとされる大阪大空襲の被災者と遺族ら23人が国に謝罪と賠償を求めた「大阪空襲訴訟」の判決が12月7日、大阪地裁で言い渡される。
矢野宏(新聞うずみ火)

◆ 防空義務が被害を拡大
2011年7月11日の結審までの2年7ヵ月の審理の中で明らかにされた事実がある。
それは「空襲被害は避けられなかった偶然の災害ではなく、国が選んだ政策の結果として生じた」ということだ。
第2回口頭弁論で、弁護団の大前治弁護士が「防空法」について陳述した。

「国は、国民に対して『空襲からの退去方法』や『生命の守り方』を周知せず、空襲の危険性や焼夷弾の破壊力についての正しい知識を与えず、防空義務・消火義務を課しました。国民が空襲から逃げることを、罰則をもって禁止したのです。このことが、原告らの空襲被害を拡大・深刻化させる重要な要因となりました」
防空法が制定されたのは1937年。4年後に改正され、「空襲時の退去禁止」が規定された。違反者には、1年以下の懲役または1000円以下の罰則が科せられた。教員の初任給が55円だった時代に、だ。

しかも、空襲のとき、建物の管理者・所有者・居住者などに応急の消火活動が義務付けられていた。たまたま、現場付近にいた人でも消火活動に協力しなければならず、違反した者には500円以下の罰金が科せられていたのだ。
戦時下の日本で一般国民に課せられた防空義務は、逃げることなく危険な消火活動を行うこと。まさに、「防空戦士としての命がけの任務」だったのだ。

空襲で父を亡くした森永常博さん
空襲で父を亡くした森永常博さん

大阪府吹田市の原告、森永常博さん(77)は、第1次大阪大空襲で亡くなった父が母に告げた最後の言葉を今も覚えている。
「女や子どもは危ないから、逃げなさい。私は男だから大丈夫。常博をくれぐれも頼む」
当時、一家は大阪市西成区に住んでいた。森永さんは12歳で国民学校6年生。翌14日の卒業式を控え、集団疎開から帰って一週間後のことだった。
空襲警報が鳴り、森永さんは母親と一緒に防空壕へ避難した。森永さんの家と隣の家に焼夷弾の火の固まりが落ちたため、父親は森永さんらを避難させ、消火活動に加わった。

森永さんが母親と戻ってくると、父親は道路に寝かされていた。
「昨夜、別れたときの鉄兜にゲートル姿のままで、まるで眠っているかのようでした。隣組の防空壕へ逃げ込み、窒息死したそうです。引き出されたばかりだったので、赤ら顔で口を閉じ、まだ温かかったのを覚えています」
遺体は、臨時の遺体安置所となった長橋国民学校の2階へ運ばれた。

「母は、逃げるときに自分が被っていた絹の布団を父の遺体にかけ、『お父さん!』と初めて嗚咽しました」
大黒柱を失い、家も財産もなくしたため、生活は困窮した。
あのとき家族で一緒に逃げていたら父は助かっていたかも......。森永さんは、今でもそう思っている。

◆ 防空壕は危険な待避所に
2010年5月26日の第7回口頭弁論。この日、意見陳述した兵庫県芦屋市の永井佳子さん(79)は、1945年6月1日の第2次大阪大空襲で被災した。当時14歳、女学校の2年生だった。

登校してまもなく警戒警報が鳴り、永井さんは防空頭巾を覆って級友たちと校庭の防空壕へ入った
防空壕といっても、縦5メートル、横2メートル、深さ1・3メートルほどの穴を掘り、天井に板を張って土をかぶせただけ。20人も入ればいっぱいで、外から見れば、細長い小山がずらっと並んでいるような粗末なものだった。
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