突然、ガガガと地揺れがして、燃えた焼夷弾が天井の板を突き破って落ちてきた。すぐにさく裂、炎上し、狭い防空壕の中は真っ赤な炎に包まれた。さっきまで一緒にしゃべっていた3人が炎に包まれて亡くなった。
永井さんは何とか外へ這い出ることができたが、背後からの炎で背中や足などに大やけどを負った。奇跡的に命を取り留めたものの、体中にケロイドが残り、戦争が終わってからも差別に苦しめられた。
「銭湯へ行くと、『あの子、皮膚病やから近くに寄ったらアカンで』とか、『あんな病気の子、早い時間帯に入れんといて』などという心ない言葉に深く傷つきました。電車に乗っていると、私の手の甲にあるケロイドを見た人が席を立って行ってしまったこともあります。以来、夏の暑い日にもずっと長袖の服しか着たことがなく、スカートもはいたことがありませんでした」
本来は命を守る場所のはずの防空壕で大やけどを負ったのは、永井さんだけではない。
1938年10月、内務省計画局が発行した「国民防空の栞(しおり)」に、次のような記載がある。
「木造家屋は破壊爆弾に対しては全く無抵抗であるから空地に壕を掘り空襲時に備える必要がある」
「家庭用防空壕の一例」として、「防空壕の各材は釘、鉄、鉄線、方丈などで堅固とすること」などの記述があり、当時は堅固な防空壕を推進していたことがわかる。
ところが、1941年9月に内務省が発行した広報誌『週報』256号の中では、政府はそれまでの防空壕政策を一変させた。
「わが国の防空壕は、積極的に防空活動をするための待機所であって、敵の飛行機が飛び去って終わるまで入っている消極的な避難所ではありません」とあり、「爆弾が落とされた場合一時その破片を避け、次の瞬間には壕を飛び出して勇敢に焼夷弾防火に突進しようというためのものです」と記載しているのだ。
待機とは、軍隊用語で戦闘行動の1つで、避難とは違う。
1942年8月の「防空待機所の作り方」には、こう記されている。
「一般には家の中に作った方が、雨水の流入の虞れがなく、夜間や厳寒時の使用を考えてみても一層便利であると思ひます。外にいるよりも家の中にいる方が、自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急防火のための出勤も容易であると考へます」
しかし実際には、空襲で家が焼け落ち、その重みで外へ出ることができず、防空壕の中で蒸し焼きになったケースも少なくなかった。
大前弁護士はこう指摘した。
「空襲時に長時間にわたり滞在できる安全な防空壕を作ってしまうと、外で消火活動する者がいなくなるので、このように『すぐ飛び出せる待機所』、より正確に言えば『危険だから、すぐに飛び出さざるを得なくなる待機所』の設置を推奨・義務付けすることが国家の方針とされたのです」
当時の国民は「国土防衛の戦士」と位置づけられ、空襲のさなかでも「防空法」によって逃げることを禁じられていた。防空壕も命を守るための頑丈な避難所ではなく、一時的に待機する場所だったのだ。
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