◆アンドレイ・ランコフ(ロシア人北朝鮮研究家)
(本誌特約=「デイリーNK」)

多くの韓国人は旧ソ連も北朝鮮と同じ共産圏国家であったため、政治と社会分野では大きな差がないと考えている。韓国人は、共産圏国家は国内旅行を監視・統制し、海外交流を遮断、政権への忠誠が不足している人々を収容所に送る国であると考えているが、1960年代や1970年代のソ連では、国内のどこにでも行くこと出来る自由があり、金さえあればラジオを買う自由があったことを知ると驚くようだ。

1940年代末にソ連の衛星国家として誕生した北朝鮮は、スターリン時代にはソ連体制に付き従って行くしかなかった。しかし、1950年代末に入って旧ソ連と北は違う道を歩んだ。1953年のスターリン死後、ソ連政権は限定的だが自由化の道に入った。逆にその頃、金日成政権は非常に厳格だった体制を、さらに厳格にするために力を注いだ。

旧ソ連と金日成時代の北を比較すると、1960~70年代のソ連は「民主国家」と呼べるぐらいである。国民に対する監視は北より緩く、物質的な生活も北よりもはるかに豊かであった。筆者は、西洋人に60~70年代にソ連の刑務所に収容された政治犯が何人くらいいたと思うか、と質問をすることがある。
この質問の正解を聞いたことはほとんどない。多くの人々は、ソ連で政治犯が数万人規模でいたと考えている。1970年前後にソ連の人口は2億5千万人に達したが、政治犯は1000人程度であった。

筆者が強調したいのは、この統計はソ連政権の主張では決してないことだ。当時、ソ連政府は政治犯がいることを認めておらず、統計を公開していない。この統計は、1990年代初めに発見されたソ連の機密資料である。また、1970年代の人権保護運動の資料を見れば、ほぼ似た統計が出されている。
より具体的に言えば、1971~1975年までにソ連で政治犯として逮捕された数は893人だ。1年で180人である。1976~1980年までは逮捕の347人と低下している。ソ連の人口を勘案すると、1970年代末の政治犯逮捕者数の年平均は、1億人当たり26人である。

スターリンのテロを鮮明に覚えていたソ連の人々は、このような政治の自由化を歓迎した。スターリンが死亡した1953年には、ソ連の収容所には政治犯が120万人を超えていた。スターリン死後、その数は数年以内に千分の一に急減した。金日成はこれを修正主義と批判し、1950年代以降から住民に対する迫害やテロを深化させた。
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