テインセイン政権は昨年8月以来、報道規制の緩和や亡命ミャンマー人に帰国を促すなど、改革志向を鮮明にした。こうした変化を受けて、完全帰国を果たしたミャンマー人も現れつつある。イラワジ誌の記者スェウィン(33歳)もそのひとりだ。
「政府は改革していると声高に叫んでいる。それが本当かどうか、自分の人生を懸けて証明してやろう。捕まえられるものなら捕まえてみろ、と覚悟を決めていた」。
今年3月初め、4年ぶりに帰国した彼は、ヤンゴン空港に降り立ったときの心境をそう語った。
空港の入国審査では、職員から賄賂を要求された以外は、特に呼び止められることもなかった。
スェウィンは、かつて政治囚だった。1998年にヤンゴン市内で起きたデモの参加者から押収された書類に関与していたことで、禁固21年の刑を受けた。2005年に恩赦で釈放された後、留学を理由に旅券を申請したが、発給されなかった。2008年、陸路国境を越えて、タイに入った。タイでブローカーを通じて旅券を入手。香港の大学に1年間留学した。その後、タイ・チェンマイを拠点にミャンマー関連ニュースを報道するイラワジ誌の記者になった。
「かつてアウンサンスーチー氏は『人々は監獄の外にいても囚われの身となっている』と語ったが、ミャンマー人は、国外でも、最底辺に置かれ、収奪され、自由を奪われた状態に置かれている。できることならば、祖国に戻りたかった」
と帰国を望んだ理由を説明した。
帰国した現在も、イラワジ誌の記者として、国内で取材し、記事を送っている。三脚を持ち歩くことを躊躇していた私に、彼は心配無用と言った。
「報道規制が緩和されて、取材の際にあまり神経を使わなくて済むようになった。その点は政府に感謝している」。
現在、ミャンマー国内で発行されている週刊紙には、スーチー女史の動向や少数民族武装勢力と政府間の停戦協議の内容についても詳細に掲載されるようになった。かつては、BBCやRFAなどのビルマ語ラジオ放送やDVB、イラワジ誌などの国外メディアでしか得られなかった情報が、今は国内メディアから入手できるようになっている。
しかし、スェウィンは『報道の規制緩和』という言葉を使っても『報道の自由化』とは決して言わなかった。
「アウンサンスーチーについて多く掲載されるのは、その方が売れるからだ。それに彼女について書くことができても、テインセイン大統領については自由には書けない」。
彼によれば、国内で発刊されている週刊紙の多くが、政府や軍の上層部に近い人物によって経営されている。検閲局は、その週刊紙の経営者が誰であるかを見て判断しているという。
彼は今、司法分野に取材の重点を置き始めている。法の支配がある社会を実現したいという思いからだ。
「政府は、賄賂はダメだと言っていても、収賄したら処罰するとは言わない。憲法で言論の自由を明記していても、それと矛盾する別の抑圧的な法律はそのまま残している。わずかな努力で実現できるにもかかわらず、変えようとしていない。本当に改革する気があるならばできるはずだ」。
スェウィンは最近、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンに寄稿した。タイトルには、「Fragile of Freedom in Myanmar(ミャンマーの脆い自由)」と付けた。ミャンマーの変化がいまだ表面的なものにすぎないという現状認識を、そこに託した。
(敬称略)
【ヤンゴン=赤津陽治】