ハンブルグを訪ねて(その1)

ナチスの爪あとを巡ったベルリンに別れを告げ、ドイツの空襲被災都市を訪ねる旅は最後の訪問地ハンブルクへ。ドイツ最大の港町も1943年7月には連合国軍による無差別空襲を受けて廃墟となり、3万5000人もの市民が犠牲になっている。炎の中を生き延びた空襲体験者や支援者ら30人を前に、「大阪空襲訴訟」原告団代表世話人の安野輝子さん(72)が自らの体験を語った。(うずみ火 矢野宏)

ベルリンから280キロ、高速列車で1時間半ほど北進すると、ハンブルク中央駅に着いた。巨大なドーム屋根に覆われた駅は国内線のほかに、スイスやオーストリア、ハンガリーなどの各都市を結ぶ国際列車も発着している。いくつものホーム上の跨線橋(こせんきょう)2、3階にはいろんな店が並び、大勢の旅行客でにぎわっていた。

ハンブルクはドイツ北部における経済の中心地で、人口174万人のドイツ第2の都市である。エルベ川沿いの港湾都市として発展し、中世にはバルト海沿岸の貿易を独占して欧州北部の経済圏を支配した都市同盟「ハンザ同盟」の中心的役割を果たした。戦後は西ドイツ領となり、現在はドイツ最大の物流拠点に。大阪市との関係も深く、89年に姉妹都市提携を結んでいる。

一行が訪ねた2月17日の日中の気温は7度。緯度は千島列島と同じと聞いていたが、氷点下だったドレスデンやベルリンより北に位置しながら、根雪も見られなかった。

ハンブルクは第2次大戦が終結するまでに70回もの空襲に見舞われている。なかでも、甚大な被害をもたらしたのが43年7月末からの無差別空爆だった。在ドイツ日本大使館の専門調査委員で空襲研究家の柳原伸洋さんは「火災嵐を起こすことで大量の窒息死を出す爆撃で、いかに効率よく人を殺すかという実験だった」と指摘する。

7月27日深夜、700機を超える英軍の爆撃機がハンブルクの上空から焼夷弾を投下した。この爆撃によって家屋に貯蔵されていた石炭やコークスなどに燃え移り、炎を伴った竜巻が各地で発生する大規模な火災嵐が発生した。

その後も空襲は米軍を加えて昼夜を問わず続けられた。8月3日までに襲来した爆撃機は延べ2600機余。9000トンもの焼夷弾や爆弾を投下、少なくとも3万5000人の市民が犠牲となったという。ドイツ政府に与えた衝撃も大きく、これによって学童疎開が本格的に始まった。

ハンブルクは教会の塔が多い街で、中でも象徴的なのが聖ニコライ教会である。ネオ・ゴシック様式の建築で、高さ147・3メートルの尖塔は世界の教会の中でも5番目に高い。その高さゆえ、大戦中は空爆の標的とされて破壊された。戦後も廃墟のまま残され、空襲の悲惨さを後世に伝える役割を担っている。
(続く)
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