◆ナチスの爪あと訪ねて
第2次大戦末期、米英軍による無差別空爆に見舞われたドイツ。東部のドレスデンは市街地の8割近くが破壊された大空襲から67年目の2月13日、東京、大阪の空襲被災者らと現地を訪れた。ベルリンに残された「ナチス・ドイツの爪あと」をご報告する。(うずみ火 矢野宏)
ドレスデン空襲の追悼式典が行われた2月14日の午後、ドイツを訪問した一行は特急でベルリンに向かった。ドレスデンから北へ160㌔。車窓から雪が舞う風景を眺めて2時間あまり、ベルリン中央駅に降りると雪は小雨に変わっていた。

かつてプロイセン王国の都として発展したベルリン。第2次大戦ではナチス・ドイツ最後の激戦場となり、徹底的に破壊された。戦後は戦勝国の米英仏が西ベルリンを、ソ連が東ベルリンを分割統治。さらに「ベルリンの壁」が築かれたことで、ますます東西に引き裂かれる。
28年後に壁が崩壊し、東西ドイツは統一され、ベルリンは再びドイツの首都になる。人口340万人、面積は東京23区の1.5倍。ドイツ最大の都市である。

中心街のポツダム広場には高層ビルが立ち並び、色鮮やかなイルミネーションが輝き、若者たちの笑顔があふれていた。ドレスデンでは見られなかった光景である。
翌15日には今回のツアーの訪問団長で、大阪大学大学院准教授(ドイツ現代政治)の木戸衛一さんの案内で市内を回った。以下、駆け歩き観光のいくつかを紹介する。

◆ベルリンの壁
ベルリンの壁は市内の中心部、財務省庁舎(ナチ時代の航空省)やベルリン市議会の建物前の大通りに、その一部が残されていた。コンクリートの壁面には落書きがあり、削られたところからは錆びた鉄骨がむき出しになっている。長さは100㍍、高さ4㍍ほど、壊されないように金網が張られていた。

壁が築かれたのは1961年8月13日。東ドイツの中に西ベルリンがあり、自由を求めて西への逃亡が相次いでいた。東ドイツ政府は若い労働力が西へ流出するのを防ぐため、ベルリン市内の東西境界線43㌔と西ベルリンを囲む国境線155㌔に壁を設置した。壁ができてからも脱出を試みる若者は後を絶たず、200人近くが殺傷されたという。

壁が崩壊するのは89年11月9日。国境も解放され、90年10月3日、西ドイツへ東側が編入される方式でドイツは統一される。壁が崩壊して20年あまり、旧東ドイツ国民への偏見はなくなったのだろうか。
今回のツアーを支援してくれた在ドイツ日本大使館の専門調査員で空襲研究家の柳原伸洋さんは首を振る。「ドイツは今、好況で失業率は統一以来最低となっているにもかかわらす、ザクセン州(州都ドレスデン)の失業率は11%。その一方で、旧西ドイツ領のバイエルン州が3・9%です。旧東ドイツにネオナチが目立つのも、失業や社会に対する若者の不満があるからです」
(続く)
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